〜超健康道〜

筋肉ドクター  小島 央

目次

はじめに

第一章 正しい健康法の探し方

 科学は信用できるのか?
 科学とは何か?
 階層原理
 フラクタル理論、カオス理論、ゲーデルの不完全性定理
 信念を反証する
 メディア・リテラシー、リサーチ・リテラシー
 ヒューマン・エラー
 KIS(Keep It Simple)原則
 現代医学vs.KIS原則
 この世の構成要素
 天命か?因果応報か?
 私の健康感

第二章 健康のための食事法

 食事と薬の違い
 薬で健康になれるのか?
 ハンディキャップ理論
 栄養vs.衛生
 類人猿の食事
 要素還元論的栄養学
 肥満、メタボリック症候群
 進化論について
 大進化、小進化
 今西進化論的栄養学
 ジャイアント・パンダ
 人間に最適な栄養とは
 実行例、実行方法

第三章 若さを維持し続けるための運動法について

 運動とは何か?
 筋肉の現状
 発育曲線、老化曲線
 筋肉の生理学
 日常生活動作、有酸素運動、無酸素運動
 筋肉の適応反応
 休養≠安静
 高強度、過負荷とは?
 筋収縮
 効果的な筋トレ
 筋トレまとめ

第四章 健康な心の作り方

 心とは?
 ロボティクス、知情意
 意識について
 記憶について
 記憶されるものとは?
 感情について
 ストレスとは?
 陰性感情について
 ミュンヒハウゼン症候群
 身口意
 感情のコントロール
 感情の解放法(身)
 感情の解放法(口)
 感情の解放法(意)
 心のKIS原則
 ストックデールの逆説
 アイデンティティを持つ
 志を持つ
 一燈照隅、萬燈照國
 永遠の命
 私の死生観
 私の現実感
 私にとっての神仏感
 宗教について
 プラセボ、ノーセボ
 ハロー効果
 習慣、中毒、依存症
 心の健康

第五章 健康に対する体質、環境の影響について

 体質とは?
 妊娠
 分娩
 育児
 子育て
 コミュニケーションについて
 お金について
 お金と健康
 寄付と投資
 お金と武士道
 環境問題
 体質、環境のまとめ

第六章 現代医療、整形外科診療について思うこと

 医療の目的
 現代医療の得意分野、不得意分野
 医療ビジネス
 画像診断について
 予防医学について
 リハビリテーションについて
 対症療法とは何か?
 注射、手術とは何か?
 ばい菌について
 抗生物質について
 新しい創傷治療
 急性外傷の応急処置
 湿布とは何か?
 腰痛について
 神経痛、放散痛、関連痛
 肩こりの治療
 変形性膝関節症について
 腱鞘炎、腱炎、靭帯炎、関節炎について
 五十肩について
 むち打ち損傷について
 骨粗鬆症について
 整形外科慢性疾患の治療

終わりに

 

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はじめに

筋肉ドクターと自称する私はレジスタンス・トレーニング、いわゆる筋トレとボディビルディングを趣味とし、そこから整形外科医となった者です。
私は主に自分をより強くすることに興味があり、競技としてのボディビルディングにはそれ程の興味はありませんでした。自分の肉体をより大きく美しく鍛え上げることよりは、とりあえずどこでも更に強く鍛えるということに集中していました。
しかし、生来怠け者で運動好きでもない私は、いかに効率よく身体を鍛えることができるのかということを考えてきました。効果の無いことをあえてやりたくは無かったのです。
そんな中で、より効率的にトレーニングするにはどうしたら良いのかという方法とそれに至った考え方があり、その考え方の中から本当に正しいものは何かを追求して得た健康感と、現在の医療のあり方に大きな隔たりを感じています。
トレーニングも医療も身体を変えるという意味では目的、方法論にそれ程違いがないはずです。しかし、現在の医学では筋力をつけるのに最適なトレーニング法すら分かりません。
そして筋トレとその思考法から私が得た健康法を実行すれば、現在整形外科で行われている投薬、手術の多くを回避できるという考えに至っています。
そこで、あなたの健康の一助にでもなればと、これを書いてみることにしました。

それでは私の筋トレを追求してきた手法から至った現在の私の“超健康道”についてお話したいと思います。
私がトレーニングを追求して行く中でまず考えたのは、普通に教科書や教則本で勉強するということです。いわゆる、伝統的、標準的方法を学ぶという方法論です。こういった本にはこういう運動をすればこの筋肉が使われるとか、この筋肉を使う運動はこういう運動であるといったことは勉強できましたが、実際ではどうするのが筋肉を発達させる近道なのかということは全く分かりませんでした。

そして、次に考えたのは、結果を出している人は出せていない人とどう違うかということでした。こうした有効性のある多くのデータから共通理論を導き出すという方法論のことを、難しく言うと帰納法や確率統計学と言えると思います。
しかし、トレーニングに関しては種目、重量、回数、セット数、頻度、動作のやり方等、変えられる要素が無限にあり、その中で最適なトレーニングはと言うと結果を出している人の言うこともバラバラでトレーニング法だけでも星の数ほどあり、何が正しくて何が間違っているのかと混乱するばかりでした。もちろん、栄養の摂取法まで言い出すと何が正しくて何が間違っているのかさっぱり分かりませんでした。
また、残念なことに現在のボディビルディング界はドーピング問題がありまして、結果を出している人が、必ずしも良いトレーニングをしているとも限らないということがあります。

そして次に私が考えたのは、筋肉の構造、筋力の発達のメカニズムを探るという方法論でした。難しく言うと要素還元論、分析主義と言われる考え方です。これは私が医師という職業にそれほど興味が無かったのにも関わらず医学部へ行った一因でもありますが、これも探れば探るほど迷宮入りという感じでした。筋細胞が、筋衛星細胞が、サルコメアが、アクチンとミオシンが、トロポニンが、トロポミオシンが、クレアチンが、ホルモンがなどとより細かいメカニズムが分かったところで最適なトレーニングは全く見えて来ませんでした。

生来の怠け者である私にとっては、これらの難解な手法で更に詳しく探究する気にはなれませんでしたし、結局どうすれば良いかだけが分かれば良いのであって、歴史を知らなくても、統計的に有効性を証明されていなくても、メカニズムが解明されていなくても、どうやれば強く健康になれるのかが分かれば十分でした。

そんな中で私が辿り着いた正しいと思える原理への到達方、KIS(Keep It Simple)原則という考え方から、統計学的に証明したわけでもメカニズムを分析解明したわけでも無いのに正しい方法が分かるということに気付きました。

そういう考え方を用いると、現在の医療は逆におかしなことをしているように思えてきました。
もちろん、私が言っていることが全て正しいという気もありませんが、あまりにも現在、伝統や確率統計や要素還元論、分析主義に凝り固まった科学というものを多くの方々が盲信してしまっていると感じ、こういう考えもありかなと思っていただければと思い、ここにその考えを著させて頂きます。

 


 

第一章 正しい健康法の探し方

 科学は信用できるのか?

まず健康の話をする前に、あなたは何を信じていますか?

と言われると、宗教の類かと思う方もおられるかもしれません。しかし、誰もが何かを判断基準として持っているから、良し悪し、損得、正誤の判断ができるわけです。

では、何が正しいことだと思っていますか?

何が正しいのか分からないのに、こういう健康法があります、あなたはこういう病気ですと言われても信じて良いのか悪いのか分かりません。玉石混交の健康医療情報が流れまくっている現代、正しいものを見極める目が重要になります。

では、あなたが正しいと信じているのは何ですか?自分の体験ですか?自分で試した実験ですか?両親から教えてもらったことですか?自分の宗教ですか?教科書に書いてあることですか?専門家の意見ですか?新聞や雑誌ですか?テレビでやっていたことですか?国の法律ですか?インターネット情報ですか?

自分が何を正しいと思っているかをよくよく考えてみると、結構曖昧ですよね。でも、世間を見てみますと、現代工業化社会、現代文明の恩恵を授かっている我々は、何かと科学と言うと信じる傾向にあるように感じます。科学原理主義の時代とも言えるかもしれません。科学的にと言うと、一番信憑性が高いと思っていませんか?

でも、科学的と思われる工学の世界でも、実験は不可欠です。科学的に予測したとおりのことが起こるなら、何も実験なんてする必要はありません。教科書と現実とは違うことを工学の世界の方は痛感すると言います。

では、科学とはなんでしょうか?科学的に証明するとはどうやることでしょうか?

 科学とは何か?

科学とは何かが分からないのに信じる価値が有るのか無いのかも判断できません。
健康といえば、「医学的に」と説明されると何でも正しそうに思う方が多いように感じますが、それは医学的というのも科学的だと思っているからですよね。

では私が調べた範囲で科学とは何かを説明したいと思います。
一般には数字を使ってデータを分析し、統計的な事実を集めてその結果から結論、仮説、理論を導いたり、定量して構造やメカニズムを解明することが科学だと思われています。求めているのは、どれだけ正確に計測しても理論に違わない客観性があり、何度やっても理論通りの結果が出る再現性があり、いかに時代を経ても同じ理論通りの結果が出る普遍性のあるものだと言えるかもしれません。
しかし、どれだけ正確に計測しようとしても、計測しようとした時点で計測するという主観が入ってしまいますし、計測の誤差も生じどれ程正確な結果なのかの統計処理も必要になります。そして、たかだか人類の歴史も数千年で近代科学と言われるものの歴史なんてまだ100年そこそこの話で、再現性や普遍性を語れるほどのデータの蓄積もありません。
そして、結果から言いますと、カール・ポパーという科学哲学者が言った、「どんな理論にも反証可能性を認める」というのが現在最も評価を得ている科学とは何かの定義なのです。
要するに、絶対に正しいと証明することは人間には不可能であることを認め、常に間違っている可能性があると考えるのが科学であるということです。実際に科学の歴史において何度も科学理論と考えられていたことが根底から覆されてきています。これをトーマス・クーンという科学者はパラダイム・シフトという言葉で表現しました。
天動説から地動説へ、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論、量子力学へなど、単純な物理の世界でも根源的な考え方が覆ることがあります。これが医療ともなると、祈祷師、呪術師、シャーマンといった医療から薬草を用いる医療、手技療法、そして、注射や手術をする医療と、全く異なる方法へと根源的に変化しています。手術においても過去には標準的治療としてなされていたものが、現在では有効性が無いということでやられなくなったものも多くあります。現在の最新医療が未来では何と馬鹿げたことをと言われる可能性もゼロではありません。
つまり、どんなに正確に計測してそのデータを分析しても、その理論が絶対に正しいとは言えないということなのです。
そして、得てしてそういったパラダイム・シフトを起こす人は、アインシュタインも特許局の職員だったように、大科学者の中から出ないことが多いようです。もしかして、どこかの大学で研究し続けている教授よりも、あなたが思っていることの方が正しいかもしれませんよ。
要するに、これは絶対に正しいとか決めつけないことこそ科学であるということです。

結局、多くの皆さんが正しい判断基準であると思っている科学的であるとは何かと言いますと、間違いがあるかもしれないということになります。無茶苦茶矛盾した話なのです。
もちろん科学とはデタラメであると言っているのではありません。人間の頭脳を結集して現実、絶対真理を捉えようと努力した最終結果であり、現実、絶対真理の近似値であり徐々に真理に近づいていることに変わりはないとは思います。しかし、絶対に正しいとはどこまで行っても言えないというのが科学であるということです。

よく、科学理論で解明できなかったり科学理論と矛盾する現象を見たりして、「やはり世の中には科学では分からないことがありますね。」みたいなことを言う人がいますが、こういった時こそ反証可能性を行使して、今のこの現象は現在のこの科学理論に合わないので反証を要すると叫ぶべきところです。こういう科学理論に合わないからおかしいという考え方自体が科学原理主義であって、科学的発想ではないのです。

もちろん医学も例外ではありません。現在行われている医療が間違っている可能性があると認めるのが科学としての医学的な思考であるということになります。

だから、一般的にメカニズムを解明すること、確率統計的にデータからできるだけ客観的に証明することが正しいと考えられていますが、それが絶対に正しいとは認めないのが科学であるということです。
例えば、そのメカニズムが科学者の予想でしかないこともあるでしょうし、まず、データというのは主観的なものなのです。データを取ろうとした時点で取りたいデータという主観が入るわけですから、その時点で客観性が失われてしまうのです。

以前、こんな会話が聞こえてきました。子どもがみかんの白い線維のところを食べていました。すると、おじいさんが「みかんの白いところは食べても良いんか?」と聞きました。するとおばあさんが「大丈夫。ビタミンCが入っているから。」そこで、おじいさんも納得して会話が終了したのでした。
このビタミンCって見えもしないですし、本当に入っているのか確認もできません。もちろんビタミンCがアスコルビン酸であるとか、身体でどう健康に良いのかとか、ビタミンCが人間の食べ物として良いのかなど、おそらくこの祖父母は知らないと思います。しかし、これで会話が終了できるのです。
おそらく、テレビ新聞雑誌情報でしょうか。それを盲目的に信じているのです。みかんの白いところのビタミンCの含有量を調べてみたわけでも、ビタミンCが身体の中で有効に働いているという研究結果を見たわけでも、ビタミンCの含有量の多い生活をしている人が健康だったという統計をとってみたわけでもないですね。ただ、良かったらしいということだけを信じているのです。それに反証可能性があるなんてことは考えてもみないわけです。
これはある意味、みかんの白いところには元気になって欲しいという思いが込められているとか、精霊が入っているから良いとかいう説明で納得しているのと、レベル的にはそれ程変わらないと思いませんか。でも、そう言うと、宗教だ、思い込みだと言う人が多いでしょう。こういった西洋文明から入った分析主義を盲目的に信用するように学校教育されているから、我々はそれが正しいと信じ込んでいるわけです。ある意味、科学原理主義というカルト宗教に入信しているようなものなのです。

データから理論を導き出す帰納法や、仮説、理論からデータを検討する演繹法が科学であるという考えもありますが、帰納法は結局、完全な客観性など有り得ないという問題がありますし、演繹法は誤りを認めず定説、原理主義に陥る危険性が高いことから、結局、反証可能性を認めるというのが科学であるというところに落ち着かざるを得ないようです。

 階層原理

もう一つ重要な考え方があります。それは階層原理やシナジーと言いまして、空間的に次元の違う物事には同じ法則が適用できないということです。
つまり、原子レベルの話が物質レベルで正しいとは言えず、物質レベルの話が細胞レベルでは正しいとは言えないということです。
ある物質同士を化合させると分子レベルで予想した特徴よりも更に異なる特徴のある物質になるという現象が化学的にはあり、そういったことをシナジーと呼んでいるようです。分子レベルで考えた特徴が物質レベルでは異なるということです。
分かりやすくもう少しレベルをあげると、素晴らしいミュージシャンが集まったからと言って素晴らしいバンド、オーケストラができるとは限らない、良い人が集まったら良い社会ができるとは限らない、良い地方自治体が集まれば良い国になるとは限らないといったことです。
このことからあなたの臓器、組織が全て健康であるならあなたは健康になれるとは限らないし、あなたの細胞が全て健康ならあなたの臓器、組織は健康になるとも限らないということです。また、みんなに有効な健康法、治療法が、あなたに有効だとは限らないとも言えますし、逆にあなたに有効だった健康法がみんなに有効だとは限らないとも言えます。もちろん確率的には同じ人間ですから有効な可能性のほうが高いかもしれませんが、それも確率でしか言えないということです。

これは医学においては重要なことで、健康増進が医学の目的だとすると、臓器の健康はその人の健康とは関係ないと言えますし、臓器の健康は細胞の健康とも関係なく、細胞の健康は健康な遺伝子とは関係ないということになります。もちろん単純なメカニズムで理解できる範囲なら正しいかもしれませんが、遺伝子は蛋白を作る設計図と分かっていても、それと細胞がどう関わるのかのメカニズムは複雑すぎてまだはっきりとは分からないですよね。こういった複雑なレベルの違いがある時、同じ法則が成り立たないというのが階層原理だと言えます。

例えば、完璧に健康な遺伝子を持った20歳の若者のご遺体があったとします。で、癌や先天異常などの遺伝子があり障害があり癌には罹っているけれども90歳でまだ活き活きと仕事をしている老人がいて、どちらが健康かと聞かれたらどう思います?
要素還元論に偏った現代医学では前者が健康だと言うのかもしれません。しかし、実際に遺伝子に書かれていてもスイッチがオンにならないと遺伝子情報が発現しないこともありますし、遺伝子が人間の健康にどのように影響するかには、多くの階層の違いがあります。この例から階層レベルの異なる話は当てはまらないということがよく分かると思います。

 フラクタル理論、カオス理論、ゲーデルの不完全性定理

階層原理のように、科学理論の中にも複雑系と呼ばれる世の中の不確かさを証明した理論が色々とあります。フラクタル理論と言いまして、複雑に無限に要素が存在する時、予測不能であるということを証明した理論も存在します。
有名なのが天気予報で、天気に関係する風がどう吹くのかに影響を及ぼす因子は無限にあります。チョウチョがどう羽ばたくかだけで台風が起こるかどうかが変わってしまうというバタフライ効果と呼ばれる話もあります。要するに天気予報は現在の科学理論的には不可能であるということがフラクタル理論なのです。

逆に無限に因子があるものが予測不能ということは、あなたが5年前に戻ってもう一度現在までやり直したとすると、現在のあなたになっているかどうかにも無限の因子があり予測不能であると言えます。無限にある選択肢の中からたまたま現在のあなたに至っているということになります。このような考え方をカオス理論と言います。
リスクに晒されるという話がありますが、例えば自分はタバコを吸っているけど健康だというような方がいます。しかし、確実に寿命を平均して10年近く短縮するリスクに晒しているということに違いは無いわけで、たまたまラッキーで今健康なだけであり、カオス理論でいうと、もう一度人生やり直したとしたらもう死んでいるのかもしれません。
逆に、超健康な生活をしていても何の因果か病気になる可能性もあるわけです。そういった混沌としたカオスの世界に私たちは生きているということです。

もう一つゲーデルの不完全性定理という理論もあります。これは、一つの法則でこの世の中の現象全てを説明できないことを証明したものだそうです。著明なアインシュタインは相対性理論を発表した後、量子力学も含めた全てを説明できる共通理論である統一場の理論というのを考えていました。しかし、その前にゲーデルさんにそういった理論が無いことを証明されてしまったそうです。
これはある意味ありがたい話で、私たちの人生は一つの法則に則って運命が決まっているのではなく、無限の可能性の中で自分は考え行動し、未来を変えることができる可能性がある世界であるということが証明されているのです。まあ、証明されなくても当たり前のような気もしますが。

 信念を反証する

最初に戻りまして何が正しいかという話ですが、結局我々が知りたい絶対正しいこと、絶対真理、事実ですが、我々人間には知り得ないということです。科学というのはあくまでも我々人間の意見に過ぎないということです。だから、病気になって病院へ行って、どれだけ偉いお医者さんが説明しようとも、それは意見であって事実ではないということです。

殺人事件の裁判などで、真実が知りたいとおっしゃる遺族がおられますが、結局自分が納得できる話が聞きたいだけで、犯人にはいかに犯罪行為をせざるを得なかったかという犯人の真実があるかもしれません。例えばある殺人事件があったとして、その犯人が被害者を殺したという事実があっても、犯人にとっての真実は何年にもわたって被害者にいじめられ続けていて追い込まれ逃げ道を失っての犯行かもしれません。被害者にとってはずっと面倒を見てやっていたのに殺されたという真実があるかもしれません。まして、遺族が望む真実なんて慰謝料がタンマリなんて下世話な話かもしれません。ある本に真実は人の数だけあるというのがありましたが、まさにその通りだと思います。そして、客観的事実というのは人間には分かりえないということです。そう考えると裁判なんて人間には不可能な気もします。恐ろしいですね。

よく余命告知なんてことがドラマ等で言われたりしますが、あれなんて非科学の極地ですよね。病気のメカニズムから余命なんて分かるわけがないですし、せめて科学的統計データからの予測という意味では天気予報と同様に確率的にしか言えないはずです。となると、1年生存率は30%ですとか、そういう言い方がまだ科学的であるわけで、余命3ヶ月ですなんて占い師の言うことで、科学的思考の持ち主の言うことではありません。それよりも早く死ぬ可能性もありますし、治ってまだまだ生き続けるという可能性もゼロではないでしょう。天気予報だって、降水確率100%で晴れてたり、降水確率0%で雨が降っていたりするのを誰しも経験していませんか?それを10日後の正午からあなたの家に恵みの雨が降り出しますって言われたら、科学者だと思いますか?占い師じゃないですか?余命何ヶ月とか病院で言われたら、その人は医者ではなく占い師です。もちろん、医者を信じるか、占い師を信じるか決めるのはあなたです。

私も常日頃から注意しようと思っているのですが、今信じていることがもし間違っていたらどう考えるかな?と自分で振り返ってみるのは重要だと思います。学校で出される問題は必ず答えがありますが、現実は複雑で答えが無い出来事がほとんどです。健康になるための方法なんて無限に言われていますが、本当の答えなんて極少数でしょう。後は、今はそう思うとか、ビジネスの売り文句であったりとか、そういった慣習であるというものでしょう。こうした玉石混交の健康情報を私なりのフルイにかけて残った今の私の答えがこの超健康道です。

本当に街中での会話などを聞いていますと、「何々はこうらしいよ。だって、テレビで言ってたもん。」「これこれはこうらしいよ。だって本で読んだもん。」とか、更には「何々ちゃんが言ってた。」とか、本当にちょっとは何が正しいか自分で考えないのかなとよく思います。

自分の健康のことなんて自分のことの最たるものですよね。それを他人に丸投げする気に私はなれません。だって、自分で納得して自分の身体を使って何が悪いんですか。他人に自分のことなんて分からないんですよ。あなたが痛い時にあなたが痛いかどうか分かるのはあなただけです。他人は誰一人として、どんな名医でも、あなたが言わない限りあなたが痛いかどうか分かりません。自分の身体について一番良く分かるのは自分であり、自分の身体は全く自分のことです。
もう少し遅かったら手遅れになっていたなどと言う医師の話もよく聞きますが、早めに来てもらえると患者数が増えるというビジネス的な話があるかもしれませんし、実際カオス理論でもあるように本当にもう少し遅かったら絶対に手遅れになっていたのかなど、医者であろうとたかだか人間風情に分かるはずがありません。あなたが元気だと思っているのに、あなたがもう死んでいるとか分かる他人は、北斗の拳のケンシロウぐらいです。
よく患者さんに、「私は専門家じゃないんで分からないんで、先生にお任せします。」というようなことを言う人がいますが、今、自分はどういう症状があり、自分はどういう生活習慣をしてきて、自分にどういった出来事が起こって、今、どうなっているのか、あなたが教えない限り他人にはどんな名医であっても絶対に分かりません。「まな板の上の鯉です。」なんて堂々と言うのはカッコ悪い生き方に私には感じます。

 メディア・リテラシー、リサーチ・リテラシー

我が国も資本主義ですから、健康産業などは販売目的で巧妙な売り文句を使って、その商品を購入することが正しくメリットがあると思わせようとします。全てを鵜呑みにして購入していたら、いくらお金があっても足りません。医療も内部にいる私の目から見てもかなり功利主義化していますから、必ずしもあなたの健康のためではなく売上を上げるために行われている部分も多々あると感じています。また、メディアもビジネスですから利権と一対のものですし、メディア情報が真実であると思うのが間違っています。科学でさえ絶対に正しいと認めないのが科学ですから、売り文句が絶対に正しいわけがありません。

実際の私の体験談をお話しますと、以前、捏造で放送中止になった某人気健康情報番組がありました。その番組で腰痛に関する放送があり、その中で最近の医学的知見とはとかけ離れた、逆に腰痛患者を増やすような情報を流していました。そこで私は放送局に自分の身分を明かし、そのことをメールで指摘しましたが何の返事もありませんでした。
その後、たまたまその放送局の方と知り合う機会がありました。そして、そのことについてお話させて頂きました。そして、その方の答えは、「あれはバラエティー番組であり報道番組ではないので、内容の正確性は問題にはならない。」「テレビというのは視聴率が取れないと番組が成り立たないので、絵的に刺激的な情報なら公序良俗に反しない限り、報道、言論の自由で何を放送しても良い。つまり、一人の狂人の意見であっても刺激的で視聴率が取れそうな内容なら放送する。」「一応、全て有識者に確認している。」「テレビのようなタダで手に入る情報が正しいと思うメディア・リテラシーの無い視聴者が悪い。」でした。その当時JR脱線事故の責任問題を大きく報道している最中でもあり、私はそういったテレビ局の姿勢はJRを避難できるものではないと言いましたが、メディアとはそういうものだということでした。
そして、後日お会いした時に、お礼を言われました。それは、実はそういったメール等によるクレーム対応を外注されていたそうなのですが、その会社がいい加減な仕事をしていることがその一件で明らかになったそうです。どうでも良い出演者の衣装のセンスが悪いとかいったクレームも多いそうで、多くのクレームの中から、問題になりそうなクレームだけを選別して報告することを外注されていたようです。外注しているクレーム対応業者がその程度なら、おそらく外注していたであろう有識者の確認も適当だとは思わなかったのでしょうか?それが元でその番組は放送中止になってしまうわけですから。
その番組でこれが身体に良いと言うと、翌日に売り場からその商品が消えるほど影響力のある番組でしたが、それでも番組の作り手の意識はその程度だということです。これをメディア・リテラシーというんですよ。メディアを読み解く力ということです。それすら知らずに、テレビでこう言ってたからとか鵜呑みにしてませんでしたか?
最近もタイトルでブラックホスピタルとか、確信犯的にやっている番組もあります。タイトルでブラックホスピタルだと言っているのに、真実の医療情報だとか思っているメディア・リテラシーの無い方も多いのではないでしょうか。

こういったことは、科学研究の世界でも起こっています。研究費を出した会社に都合の悪い研究結果を発表しなかったり、研究費欲しさに話題になるような研究結果に変えたり。考古学の教授で捏造して発掘していたのもありましたね。
捏造でなくても統計にはマジックが色々あるようです。例えば40歳代に多いものと言う結果が欲しくて、0歳から10歳、10歳から20歳、20歳から30歳、30歳から40歳というふうに10歳刻みで統計をとっても有意差が出ないときに、0歳から15歳、15歳から30歳、30歳から45歳というふうに15歳刻みで統計をとると30歳から45歳に優位に多くなるので、このデータを採用などといったことも少なからずあるようです。こんなの一般人には分かりません。論文研究などをしている研究者はこういった裏の裏を読んで、この論文は信憑性が高いかどうか調べるわけですが、気付かずに間違った相関と判断している場合もあるかもしれません。このように誰からもつっこまれないデータを出すなんてことは至難の業だと思いませんか。あらゆる狡猾なひねくれ者の突っ込みに耐えるデータを出すなんて、性格が悪くなりそうです。
こういった科学研究の真偽を見る目をリサーチ・リテラシーと言うそうですが、このレベルまで私のような頭の良くない一般人に求めるのは無理な話です。だから、私は医学論文なんて読み流しています。仕事上全く知らないのもダメなので、真理探求としてではなく、話題として情報を入れるようにしています。
皆さんも、メディア情報なんて嘘だとは思わないにしても、その中から自分で正しいことを見つける努力をしておかないと、情報化社会ですから、空理空論の偽情報に騙されてしまいますよ。

 ヒューマン・エラー

また、人間工学のなかのヒューマン・エラーという考え方があります。これは、人間は間違うものである、人間が間違えることは避けられないということです。
要するに、科学であろうと医療であろうと何でも人間は間違うということです。どんなに分かりやすく容器の形を変えて注射薬剤を間違わないようにしても、間違うことは避けられないということです。
だから、如何に間違えても被害を最小限に抑えるかということが人間工学、ヒューマン・エラーの考え方です。
自動車事故なんかもそうですよね。人がやる限り絶対に事故を起こさないシステムなんてあり得ないんです。その中でどう被害を最小限にするかという安全技術が求められるわけです。

整形外科によく交通事故の被害者という方が来られますが、事故なんてものは被害者も加害者も無いわけで、片方が失敗したというだけで、失敗された方がじゃあ絶対に失敗したことがない人間なのかと言われればそんなことは無いわけです。もちろん加害者に明らかな故意や違法行為があるのならまた話は別ですが。たまたま運悪く被害者になっただけなのに、やられた、加害者のあいつが悪いと被害者意識の高い方が結構おられます。まあ人間なんてそんなもので、結局自分の損得勘定で生きている方が大多数で、その被害者の考え方も正しいとは言えません。

このように、バイアス(偏見、錯覚)と言って、人間は現実そのものを捉えることは不可能であり、全ての出来事に対して必ず、思い込みや仮定、前提を勝手に決めつけてから判断しているものなので、必ず勘違いや間違いを起こすということなのです。科学は可能な限りバイアスを除いた客観的結果を望みますが、人間がバイアスを完全に取り除くことは不可能だということです。

 KIS(Keep It Simple)原則

では、何もこの世の中のことを分かりえない我々人間がどうやって健康になるのか。
その中で私が思うのが単純に考えるということです。
様々な業界において世の中に影響を与える程の人々にKIS(Keep It Simple)原則が重要とおっしゃっている方が多いように思います。「金持ち父さん、貧乏父さん」の著者ロバート・キヨサキさん、元世界一のボディビルダー、ドリアン・イエーツさん、マクドナルドの創業者レイ・クロックさんなど、多くの方が単純に考えるKIS原則の重要性を唱えておられます。KISS(Keep It Simple, Stupid)と、つまり愚かなほど単純にとも言われています。「KIS原則」という言葉を使わなくても、だいたい世の中に名を遺しているような人は、単純に考えることの重要性を唱えておられます。パナソニックの創業者の松下幸之助さんも「素直」であることを重視されていたようですが、ものごとを素直に考えるというのは正にKIS原則と言えます。

自分の体験だけでは勘違いもあるので絶対に正しいとは限りませんし、多くの人が体験してきた誰にでも正しいと思える一般論から簡単に自然に単純に導ける結果が一番正しいと思いませんか。
何かと複雑で難しいものが正しいように教育されている我々ですが、やはり、単純に正しいことは正しい可能性が高いだろうと私は思います。そして、階層原理に合わない話は除外する。健康になろうと思っているときに、見えない臓器が、細胞がと、逆に統計的には、環境がなどと言われたときは、信用度の低い情報だと私は思っています。
広く長い目で根源的なところを見た、自然に単純に分かりやすい情報を正しいと考えるということです。

以前テレビで、「何故、歳を取ると時間が速く感じるのか」というのをやっていて、芸能人の方が「今まで生きてきた時間が長くなったら、相対的に今の時間が短く感じるからかな」と答えると、科学者の方が「科学的には体内時計というのがあって、それが加齢と共に遅くなっていくので、相対的に時間を短く感じる」という答えをおっしゃり一同なるほどと言っておられましたが、私には芸能人の方の答えが正しいと思えました。体内時計だの誰も見たことのない、あるかどうかも分からないものを引き合いに出して、だからと言われても、呪いにかかったから時間が短く感じると言っているに等しい複雑怪奇な答えだと私には感じました。そういった専門家の発言におかしいと思える自然で単純な考えが我々大人には必要だと思いませんか。

裸の王様という話がありますよね。あれは本当によくできた話だと思います。
馬鹿には見えない服だと仕立て屋に言われ、王様は服があると信じてみんなの前に裸で出てしまい、子どもに「王様は裸だ」と言われ、王様も周りの人々も王様が裸なのに気づくという物語です。結局、素直で単純な子どもが正しいことを言っているのですが、周りの大人は馬鹿には見えない服だと信じているので、自分には見えていないけれど自分が馬鹿だと思われるのが嫌で見えている振りをしてしまいます。
しかしこの物語は、まだ王様は自分が裸だと思っていたけれど言い出せなかっただけですが、現代の裸の王様である大人たちは、自分が服を着ていると確信してしまっているところもあります。
これは科学的にはこうなんですと言われると、それを信じないと自分は馬鹿だと思われるんじゃないかと、科学とは何かも考えずに盲目的に信じているからではないでしょうか。
皆さんも注意して下さいね。

 現代医学vs.KIS原則

では、現代の医学における疾病分類についてですが、まず炎症、腫瘍、循環障害、代謝障害、奇形・先天性疾患、精神疾患などと大きく分類しています。これは完全に要素還元論的で顕微鏡の中の話である病理学の分類であって、階層原理で言えば人間レベルではない話なのです。こういうのを追求していっても健康になれないと、私はトレーニングを追求してきて思いました。いくら筋肉の構造やホルモンなど細かく知ったところで、じゃあ、一番筋力をつけるのに有効なトレーニングは?栄養は?なんてさっぱり分かりません。次々に最新トレーニング、最新栄養学がビジネスとして登場するばかりで、本当に自分のためになるトレーニングや栄養は分かりません。
同様に、病気の原因が炎症だ腫瘍だと言われたところで、じゃあ自分はどうすれば治るのか、もっと健康になるのはどうすれば良いのかさっぱりわかりません。避けられない運命としか考えようがなくなります。こういったことは私の健康にとっては役に立たない情報だと思ってしまいます。これが病気の原因だからこの薬がと、更に副作用を抑えて効果を高めたこの薬をと最新の薬が発売されるだけで、薬を売りたい薬屋さんにとっては好都合な説明ではあるかもしれませんが、自分の病気が治って再発を防ぎ健康になるのに必要な知識だとは思えません。

医学会ではEBM(Evidence Based Medicine)という考え方が1990年頃からインターネットの普及とともに言われ出しました。これは、診断や治療の有効性を統計的に明らかにした論文を考察し、伝統的な治療ではなく、論拠を参考に医療をしましょうという話です。インターネットで古今東西の医学論文の検索が容易になってきて言われ出した話です。確かに現在の医療は未だに徒弟制度に近く、上の先生やどこかの教授が書いた教科書から学んだ診断治療を行うという風習がまだまだあります。効果が不明もしくは無いと医学論文で言われている診断、治療もまだまだ行われています。
そういった伝統的医療よりも確かに統計的な結果を参考にした方が良い結果になるかもしれません。
しかし、統計結果に相関があっても因果関係では無かったり、利権が絡んだり、全く逆の結果の論文があったりと、はっきり言って複雑すぎてどれが信憑性の高い論文だか分かりません。また、明らかな因果関係が分からないものに相関が統計的にあっても、それが自分に有効かどうかは階層原理上別問題です。
もちろん、明らかに今までの伝統的医療の診断、治療の有効性が無いのが明らかになった病気については良かった面もありますが、自分が健康になるために参考になる情報を得るのは非常に困難です。健康になるための要素は無限にあるわけです。その一要素がどう影響しているかを、いちいち統計的に明らかになるまで自分の健康を放置できるほど私たちには時間もありません。

ということで、自分の体験と知識とを併せて徹底的に単純に自然に、広く長い目で根源的なところを見て健康に良いと理解できるものを信じる、そしてよく分からないものは無視するのが一番健康のための近道でないかと思います。

健康になるための情報の選択基準をまとめますと、まず、考え方が現実的か、自然で無理のない考えかどうかということです。
例えば、健康のために針で刺されるのが良いとか言われても、普通に考えれば怪我するだけです。不自然だと思いませんか?あと健康のために痛いことをするというのも見聞きしますが、普通は痛いことは良くないから身体が痛いと感じるわけですよね。もちろん手術で切り刻むのが健康に良いなんて、現実的に自然に考えると何を夢物語をという気がしませんか?それで健康になる確率なんてかなり低いですよね。
次に、合理性があるかということです。御祓いをして元気になるとか、普通に考えてどう御祓いが健康に作用するのか因果関係がよく分かりませんよね。合理的には気持ちの問題でしょうねというくらいです。となると万人に正しいとは言い難いですよね。この合理性も一つ重要な要素です。
最後に、自分の役に立つ情報かどうかということです。余命何ヶ月ですなんて、別に信じなくても良いわけです。まあ、もしその頃に死ぬ確立が相当高いと自分で感じているなら、人の迷惑にならないように準備はした方が良いかもしれませんが、今、全然自分は元気だと思っているのに検診でひっかかって病院で余命何ヶ月と言われたとしたら、自分なら全く信じなくても構わないんじゃないかなと思います。別に神のお告げじゃないですしね。そんなことに気を病んで日々過ごすくらいなら、嘘だと思って楽しく過ごしたほうが健康的ですよね。

 この世の構成要素

私が思うこの世の世界観としましては、この世の時空間はエネルギーと情報で構成されていると思っています。そして、虚無、太虚の中からビッグバンによってこの世は生まれ、物理学的には世界のエネルギーは保存しながらエントロピーと呼ばれる複雑さはどんどん増大して行き、しかし情報はどんどん増えながらも整理されて行く傾向がこの世にはあり、全体としてこの世界自体が複雑になりながらまとまって行く、進化発展していく傾向にあると思います。その流れで生物が生まれるのは必然であったのではないかと思っています。
そして、今後もよりエントロピーが増大し、複雑だけれども情報は整理された現在の生物を超える存在が発生していくのではないかと思っています。もしかすると、そういうものを人類が作り出すのかもしれませんが、概ねこの世の中は時の流れとともに進化発展していくものだと思っています。

ちなみに、あなたとは何でしょうか。私は生物とは情報だと思っています。あなたも私もエネルギーではなく、情報であるということです。アインシュタインによって物質もエネルギーの塊であることが示されましたが、実際あなたを構成する物質はどんどん代謝されていって、常に新しい物質に置き換わっています。だから、元気なあなたを構成する物質エネルギーをそのままにしようと真空パックしても、窒息して死んでしまうわけです。あなたという情報の中をエネルギーが循環し続けなければ情報を維持することができないということです。ということで、自分は結局情報の塊であると考えられます。我々は物理学的な物質的なエネルギーの塊でエントロピーとともにどんどん混合均質化する存在では無いということです。後述しますが、実際自分の存在感である実在意識も情報でありエネルギーではありません。

こう考えると生物はエネルギーをどんどん動的に代謝し変化させて行きながら、ある一定の平衡状態に情報を保つものと定義できるのかもしれません。これを分子生物学的に生物の動的平衡状態と言うそうです。

そう考えると、病気になるとは、あなたという情報体が病気という情報を有しているとも考えられます。病気があるからと、その部分を構成する物質、エネルギーを物理化学的にこと細かく分析しても、結局代謝して入れ替わるものですから意味が無いのではとも思いませんか。

 天命か?因果応報か?

この世の出来事は、変えられない運命である天命と、自分の行動次第で変えられる運命である因果応報の二つのうちのどちらかに分類できます。例えば親は天命です。親を変えて欲しいと思っても永久に変えようがありません。仕事は因果応報ですね。困難であるかもしれませんが仕事は変えようと思えばいつでも変えられます。

では、不快な症状のある病気になったときに、それは天命か因果応報かということです。そして、健康な未来を引き寄せる因果応報の方法が我々は知りたいわけです。しかし、先ほど述べた要素還元論である炎症、腫瘍、…という分類で現在どういう状況になっているかということは事細かに説明してくれる割に、じゃあ今どうすればという選択肢が全く分かりません。天命としか思えないような思考に入ってしまいます。しかし、ほとんどの病気は自分で治るようにできています。では、因果応報でたまたまそういう状態になったと考えるほうが自然ではないでしょうか。
よく患者さんで症状を起こした病気の原因が知りたいとおっしゃる方がおられますが、まず第一にそれは天命なのか因果応報なのかということを知るべきだと思いませんか。天命ならばそれこそ遺伝子を変えるような暴力的な方法が必要かもしれませんし、因果応報ならば良くない生活習慣を変えて行けば良いだけだということです。現在の三大死因の癌、脳卒中、心臓病などは生活習慣病と言われて久しいですし、因果応報なのは明らかです。また、整形外科で治りにくい慢性疾患と言われるものもほとんど因果応報である変えられるものと私は思います。それを体質だ遺伝子だと天命であるかのように言っていること自体に違和感を覚えます。
病気の原因が知りたいとおっしゃる患者さんは、要素還元論者、分析主義者の方がほとんどで、原因はなにか特別な目に見えない表に出ない物理化学的現象が起こったために病気になったと思っておられます。通常、そういったことが起こっても免疫という自己治癒力で治るようになっているのが生物です。

整形外科疾患で原因と言いますと、骨が変形したとか、軟骨が擦り減ったとか、神経が障害されたとかそういったものを原因だと説明されることが多いですよね。では、骨や軟骨や神経がそうなった原因は何だと思うのでしょう。遺伝や体質としてそういった解剖学的な変化が起こったとなると天命ということになりますし、それこそ切ったり貼ったりでもしなければ治らない気がします。
逆に、生活習慣のいくらかが影響してそういった状態を作っているのなら、因果応報ということになりますし、自分で治せるものだということになります。
そもそも、その骨や軟骨や神経の変化が現在のその症状を起こしているのかという原因論としての論理の飛躍もあることに気づいて頂きたいと思います。階層原理を思い出して下さい。

そして、因果応報だと思われる患者さんに私から「原因は運動不足による筋力低下です。心の問題つまりストレスです。」と説明すると、逆に変えられない天命かと思うのか、「もう、そうするしかないのですか。」と深刻な顔をされる方が多いのには不思議な気がします。
私もその昔は天命であるかのように、この骨が、関節がと説明していたこともありましたが、その方が患者さんは安心して、じゃあ注射を、手術をと因果応報を無視して受け入れられるのが今となってはミステリーです。

では因果応報として、今どうすれば健康になれるのかを考えてみましょう。
人間の行動を分類すると、栄養、運動、休養、あとは考え方、心の問題くらいしか変えるところはありません。天命である環境や体質なんて気にしても仕方がありません。

これはボディビルディングやレジスタンス・トレーニングを少しでも勉強したことのある方なら、当たり前だと感じるでしょう。更に筋力をつけて筋量を増やそうと思っているボディビルダーの方々はいかに栄養、運動、休養を実行するかを考えています。しかし、腫瘍がいかに小さくなるかと言うことを考えるときにお医者さんはどうやって栄養、運動、休養をとるかをほとんど考えません。腫瘍を切り取ったり、腫瘍を小さくする薬や放射線はないかなどと、SFファンタジーの世界へ行ってしまいます。言われたら当たり前だと思いませんか?
しかし、私は一番健康に重要なのは心、考え方の問題だと思っています。これは後述させて頂きます。

 私の健康感

私が信念として持っている健康感としましては、自分はこの世を生きやすくできていると思っています。生きやすく生まれてなかったらとっくに死んでいると思いませんか?
だから、ほとんどの怪我や病気は自然に治るように自分はできていると思っています。私の前に患者さんがいる時、私はその患者さん本人よりもその方の自分で治る力を信じている気がします。逆に自分の治る力を信じてあげていないから治らない人が多い気もします。
そして、うまく行かない時は改善できる生活習慣があると思っています。生きやすく生まれているはずなのにうまく行かないのは自分の行動や考えのどこかに問題があるはずだと思っています。

多くの人はなんでも効率化して早く治したいと焦り過ぎて、かえって治らなくなっている気がします。最近ファーストフードの反対のスローフードが見直され、スローライフなんて言われて来ていますよね。治療も焦らず、暴力的なファーストセラピーではなく、体にやさしいスローセラピーで治すのが結局一番治癒への近道だと私は思っています。急がば回れです。

曖昧な健康情報に踊らされるくらいなら、情報を遮断して生活した方がよほど健康的だと私は思っています。皆さんも自分の健康のために無駄な情報を手に入れるのをやめた方が良いかもしれません。

結局は自分のことは自分で決めるしかないですし、自分のことを自分で決めることができる自由が我々にはあります。まだまだ人間は人間をよく分かっていないことが理解できたと思います。これから私が思う健康になる方法を説明して行きますが、もちろん、あなたの現実にそぐわなければ信じる必要もありません。あなたのことを決めるのはあなただけなのです。いくら最新科学、最新医学に合わないと言われていても、あなたの思う最良の方法で、あなたの人生を生きて行けば良いのではないでしょうか。

 


 

第二章 健康のための食事法

 食事と薬の違い

では、健康のための食事法について考えてみましょう。世の中、これが良いあれが良いと健康のための食事法は溢れています。
でも、どれが正しいのでしょう?

その前にまず、食事とは何かを考えてみましょう。口から入れるものとして食品と薬品、食事と薬ってありますよね。では、どう違うのでしょうか?
元の意味としては、食事は栄養になって身体の糧となり、薬は病気を治すものという意味でしょう。
食事は通常量では有害作用はないけれども、薬は量を摂り過ぎると有害作用のあるものとも言えるかもしれません。毒と薬は表裏一体のものです。薬というのは緊張させるか弛緩させるか、分泌させるか抑制するかという作用を概ね有しているもので、高血圧の方には血管を弛緩させるような降圧剤は有効かもしれませんが、低血圧の方に同じ薬を投与すれば更に血圧が低下し危ないわけです。状況によっては薬が毒になるということです。
また、食事に含まれるアルコールやカフェイン、煙草のニコチンなどもそういった薬や毒と同じと考えられます。このように天然に薬や毒は数多く存在しています。天然だから安心といった風潮がありますが、天然だから全て安心というわけでもありません。

しかし、現代は資本主義社会でかなり食品と薬品の意味合いが異なってきているように感じています。まず薬品メーカーも会社ですから利益を出さなければなりません。では、何故、薬品メーカーが儲かるのでしょうか。それは新薬を開発し販売するからです。では、どういう薬が高く売れるかというと特許を取った薬なんです。ところが特殊な抽出法でもない限り、自然界に元々あった物質を見つけても、それは発見であって発明ではないので特許が取れません。ちなみに天然の有効成分だけ抽出したものを生薬と言います。で漢方薬というのは生薬の合剤のことです。なので、天然の有効成分を見つけて副作用を小さくし効果を増強するようにデザインし化学合成し直して新しい物質を作り出します。するとその薬は特許を取れるわけで独占販売することができ、儲かるわけです。
そして特許が切れてしまうと、ジェネリック医薬品が、安くダーっと市場に出回ってしまいますから、価格競争となり開発したメーカーはもうそれほど儲けられなくなってしまいます。
こういった状況にあるため、薬品メーカーは新薬の開発競争をし、ヒット商品を模索し、新薬を売り込むためのPRに多くの予算を注ぎ込みます。

ここで、薬という物質の毒の作用を下げて薬の作用を強めるんだったら結構な話だと思いますよね。
しかし、良いことばかりでは無いようです。たとえば、ジギタリスという強心剤がありますが、これの副作用に嘔気があるようです。天然のジギタリスは摂り過ぎると嘔気がしてそれ以上摂れないようですが、製品化した化学合成のジギタリスは嘔気がほとんど起こらないようになっています。ですので、逆にジギタリス中毒という状態になってしまうそうで、血中濃度を採血してモニターしながら投与しないと危険なのです。
このように副作用がある方が使いやすい場合もあるようですので、何も作用を増強して副作用を抑えるのが良いことばかりでも無いようです。

 薬で健康になれるのか?

ここで、薬について自然に単純に考えてみましょう。私たちがなりたいのは健康体ですよね。体を未知の化学合成物質で満たし、健康な体を作ることが可能なのでしょうか?普通に考えたらかなり可能性は低いと思いませんか。未知の化学合成物質で自分が構成されたとしたら、低い可能性で××マンみたいな超人になれるかもしれませんが、元の健康体には戻れないですよね。

ちなみに薬が認可されるには治験という動物実験、人体実験で有効性、安全性が確認されなければなりませんが、この時、他の薬を飲んでいない人や動物で実験します。このため、多くの薬はせいぜい多くて2剤までの副作用しか検証されていません。未知の化学物質を3種類以上飲むと体の中でどういう変化が起こるか全く分からないのです。体内という環境の中でどのような化学変化が起こるか分からないで使われているのです。湿布薬や塗布薬のような経皮吸収の薬でも例外ではありません。お医者さんがお医者さんへ向けて書いた箴言を集めたドクターズルールという本には、3種類以上投薬して治らないときは全てやめると治ることが多いと書かれています。

ビタミンは身体で作れない必須の栄養素ですので、栄養不足が心配な方で、病院でビタミン剤の処方を希望される方がいます。しかし、病院で処方されるビタミン剤の中には化学合成物質であるものが多く、天然のビタミン剤では起こらない副作用のあるものもあります。ビタミンだから大丈夫ということもないので注意が必要です。

ところで先進国の3大死因の一つである癌についての話ですが、癌細胞を誘発する天然の発癌物質は数えるほどしか無いそうです。しかし、人間が化学合成した発癌物質は年々凄い勢いで増え続けているのです。
癌による死亡が増え続けている現代ですが、このことが影響しているのではないかと私は思っています。癌に罹りたくなければまず、処方薬も含めて人工化学合成物質や本来生活圏に無かった重金属などを遠ざけるのが運動や栄養の内容よりもまず重要であると考えられます。食品添加物や農薬は結構言われていますが、飼料添加物、殺虫剤、除草剤、保存料、人工甘味料、香料、着色料なども近くに置きたくないですね。殺虫剤を気軽にシューってやっているのも私は結構嫌です。女性の場合、化粧品の中の保存料や着色料、香料なども怪しいですよね。私はできるだけ健康のためには避けた方が良いんじゃないかと思っています。

ちなみに、米国の死因は3番目までは日本と同じ、癌、脳卒中、心臓病ですが、米国の死因第4位は正しく処方された処方薬による死亡という論文が発表されています。驚きです。これは日本では国民皆保険制度なので、色々な病院にドクターショッピングしに行って多くの薬が処方されても個人個人の受診歴は確認できませんし、処方したのと同じ病院で体調が悪くなって死亡するとは限らないので薬剤の投薬歴の統計が取りにくいのですが、米国では個人個人が医療保険に入る制度なので、保険会社が個人個人の通院歴、投薬歴を把握しやすいので出た結果であると言われています。日本では4位が肺炎で、次に事故自殺と続きます。投薬できる極量が米国とは異なるとは言え、かなりの投薬総量を誇る我が国ですから実は処方薬による死亡も隠れているだけかもしれません。

例えば、自己免疫の異常により関節が破壊されていく関節リウマチという病気に、メソトレキセートという抗癌剤を量は少量ですが関節破壊が抑えられるということで投与されるようになりました。しかし、この関節リウマチに対するメソトレキセートの少量投与で死亡例が報告され、汎血球減少といった副作用をしっかりチェックするように言われています。
しかし、外科で抗癌剤として投与されていた時にはより大量に投与しているのですが、死亡例の報告は無いようです。これは、癌で亡くなられたと思っている方の多くは投薬で亡くなっている可能性があるのではないかと私は思っています。

 ハンディキャップ理論

また、ハンディキャップ理論と言いまして、習慣性薬物やバンジージャンプのような自らを危険にさらす行動をすることが、人間にはあります。これは、人間に限らず動物にも見られる行動のようです。あえて危険に身をさらして、自分は大丈夫なことを誇示したいという気持ちがあるのかもしれません。危険に身を晒す自分がカッコイイと思う部分もあるのかとも思います。しかし、最初は酒やタバコなど薬物をやり続けながらカッコつけていても、結果、中毒、依存症になり止められなくなり逆にカッコ悪い状態になっている方が多いように思います。害なことをやり続けることで健康を害すのは当然で、元気な充実した人生を生きようと思っている人には決して勧められるものではありません。

 栄養vs.衛生

食事の話に戻りまして、現代の食事環境について考えてみましょう。現代は食料の大量生産、大量消費の時代です。大量生産大量消費の時代だと、問題になるのが衛生面です。汚染された食料が出回ると簡単に集団食中毒が蔓延してしまいます。と言うことは衛生面でミスが許されません。すると、加工、消毒、滅菌が重要になってきます。加工、消毒、滅菌が重要視されるとどうしてもその分栄養が失われますし、薬品の使用量が増えてしまいます。本来健康のためには加工、消毒、滅菌が少ない食物を摂った方が良いのですが、マイナスを無くすためにプラスを犠牲にしている部分があると思います。病院の食事などはもちろん食中毒など論外ですから、どうしても衛生面を重視した食事にならざるを得ません。添加物なしで衛生面を保つのは困難ですし、必ず火を通した食事しか出さないという病院もあります。病院食で不健康になっていくのは仕方がないと言えるかもしれません。

 類人猿の食事

ここで、現代人の食事について考えてみましょう。学校では人間は雑食動物だと習います。確かに肉も魚も野菜も果物も何でも食べています。しかし、本当にそうなのでしょうか?
人間は動物の分類では類人猿の一種です。人間と近い動物と言われているチンパンジーやゴリラなどの類人猿は、歯の形や消化器構造が人間に酷似しています。しかし、最も人間に近い類人猿と言われているボノボの生態を調べられたものを見ますと8、9割が果実で1、2割が野菜、そして1%程度が昆虫などの肉食であるようです。これを雑食と言うのでしょうか。人間以外の類人猿は漿果食(フルーツ食)動物です。このことから考えると人間も本来は漿果食の草食動物であったのではないかと思います。

最近のチンパンジーの調査などを見ますと、肉食や共食いも多く観察されているようですが、絶滅が危惧されるほど乱獲され棲息地も無くなっている状態になってからの食性の生態は、参考にならないと私は思っています。そういう状態で、やはり肉食もするので雑食だというのは間違っているような気がします。
人間でも共食いをする食人族が歴史上見られたようですが、食人族はほとんどが食糧不足の部族が他の部族を食べだしたところから始まっているようで、美食のためや、元来の共食い種族ではないようです。

 要素還元論的栄養学

では栄養学について考えてみましょう。現在の栄養学というのは完全に要素還元論です。人参が身体に良いと分かると、人参に含まれるβカロチンが、ビタミンが、食物繊維が、ミネラルが、酵素がなどと人参を構成する要素の何が身体に良いかなどと考えます。でも、人参が身体に良いで終わっても良いのではないかと思いませんか。逆にそういう栄養素を合わせて人参を作り出すことができるのかと言われると、人間には生物は創造できないわけで、生態系のバランスの中で食物があるわけですから、あえて分解して考えなくては良いのではないでしょうか?

三大栄養素で糖質、蛋白質、脂質があって、微量栄養素のビタミン、ミネラル、食物繊維があってと、そんなことを知っていても何が健康に良いのかさっぱり分かりませんし、次々に発見される栄養素をいちいち追いかけて行って、最新の栄養学なんて言ってますが、結局昔から食べているものの成分を発見しているだけですよね。

そして、そういう要素が本当に身体に良いのかと統計的な研究も多くなされています。しかし、コーヒーの効果を調べるだけでも、砂糖やミルクやフレッシュを入れるかどうかなどの影響を除外しなければ証明できないですし、生野菜の影響を調べようと思うと、ドレッシングはどうかなどと言われたらとんでもなく難しい研究になってしまいます。それらの統計結果が出るのを待ってから、健康に良い食事をしようとしても、待っている間に寿命が尽きてしまいます。

栄養素として面白い歴史があるのが食物繊維です。見つかった当初は吸収されず排泄されるだけのもので、栄養素として人間に不必要なものと言われてました。しかし、野菜の摂取量が多いと大腸癌が少ないと言われ、食物繊維は実は腸を掃除する働きがあると言われるようになり、食物繊維は栄養素として重要と言われ出しました。しかし、最近の研究では食物繊維の摂取に大腸癌の予防効果はないと言われてきています。もう、わけ分かんないですよね。

難しく考えると間違えますから単純に考えましょう。

 肥満、メタボリック症候群

では、最近流行のメタボリック症候群、肥満について考えてみましょう。よくよく考えると肥満になっているのは人間と人間に飼われている動物だけですよね。野生動物はカロリー計算もしないし、サプリメントも摂りません。でも肥満にはなりません。
と言うと、野生動物は食べ物が十分に摂取できていないからと言う方もおられると思います。
しかし、生態系のピラミッドと言いまして、通常、食べられる側は食べる側よりも圧倒的に多くいるものなんです。余程の異常気象でも起こらない限り通常は、狩猟採集生活をしている動物も餓死寸前の生活をしているわけでは無いそうです。一般的に農耕畜産生活をする以前の人類は常に餓死の危険に晒されていたかのように思われていますが、実はそれ程食料に困る状態でも無かったそうです。しかし、それでも太らないとなると、食事内容が肥満になる原因と考えるのが正しいように思えます。

ちなみに、カロリーについてですが、比叡山の延暦寺で千日回峰行という荒行をされた酒井雄哉大阿闍梨というお坊さんがいます。このお坊さんの修行中のカロリー消費を計算された方がいます。
何もしないで寝ていても消費するカロリーの基礎代謝量が約1,300kcal、一日摂取カロリーがうどんまたは蕎麦、胡麻豆腐、ジャガイモで約1,400〜1,500kcal、そして、一日40kmを毎日7時間で走破されます。常人離れしています。その一日消費カロリーは約2,000kclで毎日1,800kcalほど足りない状態であり、1ヶ月に5〜6kg減るのが計算上正しいそうです。このお坊さんは背の低い小さな方なので、体重およそ5,60kgと考えますと、10ヶ月ほど修行するとこのお坊さんはいなくなります。これが現代科学での正しい考え方です。
しかし、このお坊さんはこの修行を7年を2回で14年しても消えて無くなっていません。ここで、科学とは何かを思い出して下さい。科学に合わないのは不思議な力が作用しているとか考えるのは科学原理主義です。そうです。カロリー計算は間違っていると反証されるべきところなのです。だから、カロリー計算でダイエットするのは間違った方法だと反証すべきということなのです。

こういう自然な食事内容が良いという話をすると人間は長年加工雑食の現代生活をしているのだから、野生動物とは異なる進化をしているので動物のことは人間には当てはまらないとおっしゃる方もおられるでしょう。では次に、進化論について考えて見ましょう。

 進化論について

現在の進化論で共通することは、生物はある単一の種から全て派生してきたものであるということです。一気に色々な種が同時に発生したという可能性は、自然に生物が発生する困難さから否定的なようです。もちろん知的設計説と言ってクリスチャンの方には神が世界を、様々な生物を一度に作ったというのを信じている方もおられるようですが、ここではその議論は置いておきましょう。

では、その発生した生物の唯一種がどのような過程で様々な生物に進化してきたかというのが諸説色々あるわけです。
その中でも有名なのがダーウィンの進化論です。
ダーウィンの進化論は、最近ではネオダーウィニズムと言われる内容に発展し遺伝子のDNA情報、ゲノムということまで分かっているので、進化というのはDNAが変化するわけですから、DNAの突然変異で説明しています。
そして、突然変異した亜型の種が食物連鎖で優位に立てる形質をたまたま有していた場合に、適者生存と言われるように生き残り、不適者は自然淘汰されるというのがダーウィンの考え方です。

しかし、このダーウィンの進化論に異論を唱えた日本人がいます。今西錦司さんという方です。まず、ダーウィンは突然変異で進化を説明していますが、現在観察される生物はできるだけその生物の特徴である形質が親から子へと保存される、要するにDNAの異常が発生しないようなシステムになっており、突然変異で今までの種よりも優位なものが生まれることは今までまだ観察されていないということです。突然変異が起こった場合、通常病的な先天異常を有することはあっても、逆に優秀なものが生まることはないということです。
また、突然変異で優秀な一個体が生まれたとしても、雌雄分化した種は、種の中で交配を繰り返して子孫を残すわけですから、その形質が子どもから種全体へ引き継がれる可能性は低いと思われます。

次に適者生存、自然淘汰という考え方についてですが、先程も述べたように食物連鎖上、生態系のピラミッドがあり、捕食者よりも被捕食者が圧倒的に多く存在しています。ですので、捕食者が被捕食者を食べる時に食べられ難い形質を獲得した被捕食者が食べられないで生存競争に勝ち適者生存し、食べられ難く突然変異できなかったものが自然淘汰されるという考えも疑わしいそうです。要するに圧倒的多数の被捕食者が捕食者に食べられるかどうかは、優位な形質を持てたかどうかではなく、運が悪かったから食べられたのであるということです。
仮に捕食者が食べやすい種が食べにくい種に突然変異で進化してしまったとすると、捕食者は適者を捕食できないわけですから、絶滅の危機に晒されて、適者となった生物は逆に増え過ぎるということが起こってしまいます。

要するにダーウィンの進化論が正しいとなると、種同士が常に絶滅しあうという状態に晒されていることになります。捕食者は常に被捕食者を食べまくろうしていて、被捕食者も突然変異で適者とならなければ絶滅させられると逃げまくっているジュラシック・パークのような世界だということです。しかし、今西錦司さんは、登山家、冒険家でもあったので、自然を観察していると自然は調和していて、とてもそんな殺伐とした世界では無いと思われたようです。よくよく考えてみたらジュラシック・パークみたいな世界でダーウィン論が正しいとすると、肉食恐竜は食べまくって草食恐竜が絶滅して食料が無くなるか、草食恐竜が進化してしまって肉食恐竜が食べられなくなってしまうか、どちらにしても肉食恐竜は絶滅することになります。

では、今西錦司さんの進化論とはどういうものかと言いますと、生物は共存共栄していて種自体がいろいろな場所へ棲み分けていくうちに、その生息地に合わせて主体性をもって種が進化していくという考え方です。
ダーウィンとの大きな違いは食物連鎖、生態系が進化に影響しないということです。
例えばラマやレオポンは別種と考えられているラクダと馬、ライオンと豹がおそらくもともと同種だったのに別種に分かれてしまったので、まだ1世代だけなら交配してあいの子ができるということです。ヒグマとシロクマも1世代ならあいの子ができるらしいですね。このように棲み分けていくうちに進化というか分化していったのであって、食べる食べられるという関係での生存競争で進化するわけではないということです。

で、何故、この今西さんの進化論が一般的にならなかったのか。まだ、人間に要素還元論的進化論でこれをうまく説明できないからです。遺伝子、DNAの進化が主体性をもって種がと言われても、どういうメカニズムかさっぱり分かりません。ダーウィニズムの人々は突然変異という単純な説明で論理の飛躍があるにもかかわらず解明した気になっています。で、どうやって進化するのかと聞かれた今西さんが、今まで単一の原生種から何百何千万種にも進化してきたのだから、進化できるように生物はできているに決まっている。進化するべくして進化するとおっしゃり、要素還元論者には科学的でないと排斥されてしまったようです。
その他にも、今西さんは京都大学であり、その頃、木村資生という東京大学の方がネオダーウィニズムの発展型の中立説という進化論を発表し、大学の力関係でという俗な話もあるとか無いとか。こういったリサーチ・リテラシーもあるかもということですね。

 大進化、小進化

しかし、どんな進化論でも説明できない進化があります。
まず、最初の生物がどうやって生まれたかということです。最初の生物について議論することになると、生物とは何かという問題になります。ウィルスやプラスミドなどの微生物を研究していくとどこまでが生物という境界が微妙になってくるようです。ミトコンドリアは生物かとかいろいろ諸説あるようです。
ちなみに私は前述したように、生物とはエネルギーを動的に代謝し変化させ続けながら、ある一定の平衡状態に情報を保つものと考えています。

もう一つの説明できない進化は大進化と呼ばれるものです。例えば鳥はどうして飛びだしたのか。最初の鳥はどうして飛んだのか。という問題です。
それ以外の環境に適応するようになる程度の変化は小進化と言われるそうです。
この大進化の特徴はその進化に至る中間種が見つからないことだそうです。飛びそうで飛べない鳥が発見できていないのです。
これと同様に肉食動物がなぜ肉食動物になったのかも大進化に含まれるそうです。なぜ歯の形や消化器官の形状が肉食になって肉を食べだしたのか。おそらく草食だったある種が周りにいた草食動物を食べ出したのでしょうが、これも肉食動物になりかけの消化器を持った草食動物は見つからないようです。恐竜だって形態から、これは肉食、これは草食って分けているわけですよね。形態学的に草食なのに肉食していた恐竜なんて聞いたことないですよね。ある意味、今の人間のような感じでしょう。
でも、人間は未だに他の類人猿と消化器官も歯も大進化していないのです。形態学的に吉野家の牛丼を食べたりマクドナルドを食べたりするように進化しているようには思われていないのです。多少最近の子は下顎が小さくなってきたりしているのはその前兆かもしれませんが。でも、まだまだ適応できずに肉食や加工食品食をすると肥満したり病気が増えたりするようですから。もちろん、肉の中に含まれる飼料添加物、化学物質の害による可能性もありますが。

 今西進化論的栄養学

ということで、私は今西錦司の進化論が正しいと感覚的に感じており、人間は種全体が多くの肉食を含む雑食をしており、しかも唯一の加熱を含む加工食品食の生物なわけですが、まだまだそういう大進化に至っていないため、食事で健康を害する部分があり、まだまだ類人猿の漿果食の方が身体に適応していて健康を害しないのだと私は感じています。

ちなみに、今西錦司さんは晩年ご自分でやられている学問を自然学と呼ばれていたそうです。自然な考え方という意味でしょう。この世を正しく説明するのはKIS原則と今西錦司さんも考えておられたのではないでしょうか。僭越ながら、この超健康道も今西錦司さんがご存命なら、自然学に加えて頂けたのではないだろうかなどと、偉そうなことを思ったりもしています。

ダーウィンの言うように、人間が突然変異で大進化し、肉の多い雑食や牛の仔の食べ物である牛乳を摂ったり加熱調理を含む加工食品を食べたりする種になったとはまだまだ思えません。私が思うに唯一他種生物を絶滅に追い込む珍しい種である人間が考えた進化論だからこそのダーウィンの進化論だと思います。

では、次に人類の拡散について考えてみましょう。もともとおそらく漿果食であった人間は、チンパンジーの親戚としてアフリカから始まったと言われています。そして、道具、火を使い出して食べ物の種類をどんどん増大させて生息地を広げて行きます。そして、肥沃三角地帯に至った人類は、農耕畜産を始めます。そこで大きく食性が変わったのだと私は思います。農耕できる植物、畜産できる動物ってのがたまたま肥沃三角地帯に多く生息し、農耕畜産を早く始められ大陸が横長でそういった生活範囲を大きく広げられたからこそ、白人が文明社会を早く構築することができるようになり、世界を白人優位な社会にできたのだとジャレド・ダイアモンドさんは「銃・病原菌・鉄」の中でおっしゃっています。

しかし、最初に農耕民になった人びとは狩猟採集民より身体のサイズが小さく栄養状態も良くなく、ひどい病気にもかかりやすく、平均寿命も短かったと、ジャレド・ダイアモンドさんは考察しています。では、何故あえて農耕畜産を始めたのか。それは食料生産に従事する人数を減らすことができ、専門職を持った人を養えることと、食料を求めて移動しなくてもよくなり定住することができるようになったのが大きかったようです。定住できるようになると早いサイクルで出産育児が可能になります。実際、狩猟採集民族は4、5年に一人しか子どもを作れなかったようです。病弱で弱い人間でも戦闘専門の人々が大人数でかかれば、少人数の強い人間を駆逐できます。ということで、急速に狩猟採集民から畜産農耕民にシフトしていったようです。また、徐々にそういった食事にも適応し、身体も大きくなり病気もしなくなり平均寿命も長くなったということだと思います。

 ジャイアント・パンダ

しかし、自然界にも消化器構造と食性の異なる動物がいるようです。有名なパンダ、ジャイアント・パンダがそうらしいです。パンダは消化器構造上は熊と似ていて、しかも植物を消化するセルラーゼという酵素も分泌されないようです。パンダが笹を主食として食べることは有名ですが、草食動物のように食物繊維を直接消化してエネルギーに変えることは出来ないそうで、腸内微生物が消化してくれることに依存しているため、大量の笹を食べなければならないそうです。
となると、仮にパンダが絶滅して、何千年後かにパンダを知らない人類がパンダの化石を発見したとしたら、何の疑いもなく肉食動物だというのかもしれません。
そう考えると、恐竜の化石をみて、これは肉食だ、草食だというのも一概に言えないように思いますよね。稀に消化器構造と違うものを食べる人間やパンダのような動物がいたかもしれません。

 人間に最適な栄養とは

では、より健康的だと思われる進化論などから人類レベルで考えた食事法をまとめてみましょう。
薬、毒を避ける。特に人類が創りだした化学物質、掘り出した重金属などは本来身体の中に無いものなので避けることが重要です。
そして、主食は果実類、主に午前に。何故、午前かと言いますと、類人猿は漿果食で主に午前にフルーツを食べるようです。科学者の方々は日内変動であるサーカディアンリズムからとか、午後にはアルカロイドがフルーツに増えて云々などと、色々考察していますが、単純に類人猿がそうだからそうした方が良いにしておきましょう。
そして、副食は野菜、主に午後にです。もちろん8,9割は果実類なので、午後に野菜を添えるということになるでしょう。
そして、できるだけ生食。メタボ、肥満予防には生食だと思います。豚でも加熱していない飼料を与えたら太らないらしいです。加熱調理によって消化が良くなり食材の数が増えたのでしょうけれど、加熱しなければ食べられないものは本来の人間の食べ物ではないと思います。加熱は本来美食のためではなく、基本的に衛生面のためにやることです。そして、衛生面を重視すると栄養面が失われます。
そして、食材となる生物が生きている状態で食欲が沸くかどうかも重要です。生が良いならユッケや生レバーを食べたいと思う方もおられるかもしれませんが、生きている牛を見てお腹が空いたらかぶりつきたいと思う方はおられないでしょう。パンダも動物の死肉を食べることもあるようですが、小動物を襲おうとはしないそうです。やはり、笹に食欲をそそられているようです。人間も生きている状態で食欲をそそるものを食べるのが、より適した食材だと思われます。そういう意味でも果実は抵抗なく実がなっている状態で食べたいと思いますから、人間の食材だと言えると思います。
そして、空腹時に適量食べる。美食をしないということです。でも生果実食をメインにすると、美食しようがないとは思いますが。
そして、日没後は食べない。これは類人猿である人間は夜行性ではないからです。インド建国の父ガンジーも日没後に食べるのは身体に良くないと言っています。
飲み物は水か果実、野菜を絞ったフレッシュジュースにします。これも本来の食事だからです。濃縮果汁還元の100%ジュースなどは加工品であり、酸化しているそうなので、本来のフレッシュジュースではありませんのでご注意を。
で、最後にこれは人類が狩猟採集民である果実食を捨て畜産農耕民となってから健康を維持するために考えた叡智だと思います。保存食である穀類、豆類を穀類:豆類=2:1で食べるということです。もちろん、穀類、豆類なんて加熱調理しないと食べられませんが、これは、料理研究家の故・丸元淑生さんが世界中の家庭料理を研究され、世界中の家庭料理が穀類:豆類=2:1であることを発見されたそうです。果実食が不可能なときはこれで代用できることを人間が発見したのかもしれません。

と、人間レベルで単純に自然に普通に考えると、サプリメントなんて入る予知がなくなります。
要素還元論でこの栄養素がどうのこうのとか、この栄養素を摂った人がこういった傾向があるといった統計データを知らなくても、自然に人間の進化から考えるとこう思わざるを得ないと思います。
私が思うサプリメントとは何かと言いますと、衛生面のために犠牲にした栄養素を別から取るという考えだと思います。では最初から元の原料を食べれた方が良いのではと単純に思えますがいかがでしょうか。

 実行例、実行方法

ちなみに、そういうダイエットを自分でしてみたところ、0.1t近くあった私の体重が、量を気にしないくても確かにどんどん落ちていきました。フルーツよりサラダが多めになり、最後までドレッシングは使ってしまっていましたが。そして、体調も良くなりく75kg級でボディビルコンテストに出場することにまでなってしまったのです。

もちろん私はあなたにこの食事法を完璧にやれなんて言う気はありません。現在の私も全く完璧とは程遠い状態です。ただ、健康的な食事の指標を持つという意味で、牧場でヘルシーメニューとか言いながら肉や牛乳の加工食品を出してビタミン、ミネラルたっぷりとか言うのを鵜呑みにするのは危険だということです。サプリメントでこれを摂れば健康になれるとかいうのも眉唾ものだということが分かりますね。サプリメント会社が売りやすいように作ったデータとそれに同意する(買収された)研究者、効果が(たまたま?)あった体験談だけを売り文句にしているものも多いように感じます。薬に関しても同様にそう思います。もう一度自分の分かる範囲で健康的な食事について考えて、多少食事の選択を変えれば、人よりは十分健康になれると私は思っています。

 


 

第三章 若さを維持し続けるための運動法について

 運動とは何か?

では、超健康権化・筋肉ドクターの真骨頂、運動の話をしていきましょう。

運動の内容に入る前にまず運動の必要性の話をしましょう。本当に世の中の人を見ていると運動アレルギーの方が多いのに驚かされます。食事やサプリメントなら躊躇なくお金使っている方もおられますが、運動となると避けて通りたい方が多いようです。とても難しいものだと思っている方が多いように思います。
患者さんに、「運動して筋力を付ければ治りますよ。」と言うと、「それしか無いですか。」と深刻な顔をされる方がいます。私からすればそれだけで良いのかと思うのですが。
私にとっては、よく分からない手術をされたり、痛い注射をされたり、化学合成物質である薬を飲まされる方がよっぽど嫌ですけどね。
そして、私は皆さんが好きな栄養やサプリよりも運動の方が数倍健康には重要だと思っています。では、その理由を説明して行きましょう。

まず、運動するとはどういうことかと言いますと、皆さん運動=スポーツという印象が強いようで、苦手だとかできないとおっしゃる方が多いです。病院で医師が運動して下さいと言った場合、ほぼ間違いなく野球やサッカーや陸上競技などを練習しなさいとは言っているつもりはないと思います。
しかし、苦手やできないと言っておられる方も生きて行く以上、起きている間は身体を動かなければならないわけで、しっかり動いておられます。要するに筋肉を動かしている、筋肉を収縮させているわけです。医師が言っている運動はそのことを言っているので、何かを上手にやらなければいけないとか難しいことをできるようにならなければならないとかそういうことではありません。
家から病院の診察室まで一人で歩いて来て、「私は運動できません」と堂々と言っている方がおられますが、家から診察室まで来るのに運動することができています。
健康のための運動というのは有効に筋肉の収縮をさせるかどうかであって、何も上手である必要はありません。安心して下さい。

 筋肉の現状

では、何故、私が栄養よりも運動を重要視しているかと言いますと、20歳を超えると日常生活程度の運動をしていても年間1%程度筋力が低下すると言われています。この日常生活程度の運動というのが重要です。よく、運動は仕事で立ち仕事だからとか歩いているからとおっしゃる方がおられますが、それは日常生活程度の運動なんですね。いくら良い栄養を摂ってもこの筋力低下からは逃れられないわけです。
しかも、どこか具合が悪くなって病院に行きますと安静にしておいて下さいと常套句で言われますが、床上安静でいると1日で0.5%筋力が低下します。安静に寝ていると、日常生活程度の運動をしている時の1年分の筋力が2日で落ちてしまうんです。
ちなみに、無重力下では1日で1%、1日で地上の重力下で日常生活程度の運動をしている1年分落ちてしまうんです。宇宙飛行士は無重力空間で頑張ってトレーニングしていても、長期滞在になると地上に帰ってくると立てなくなってしまうんですね。
迂闊に「ガンダム、行きま〜す!」と宇宙へ行ってしまうと、ニュータイプになれても地上で立てなくなってしまうんです。
ということで、日常生活動作、運動の重要性はよく分かりましたね。

 発育曲線、老化曲線

人間普通に生活していても、スキャモンの発育曲線というものにも示されているのですが、だいたい20歳くらいまでは普通に日常生活していれば自動的に身体の機能は高まるようになっています。そしてそこから徐々に機能低下して行き、だいたい80歳くらいになれば全体に機能がかなり低下するようにできています。肺気腫、糖尿病、動脈硬化、認知能力の低下などもその加齢の影響を受けた結果なんですよね。肺気腫はタバコなどで、糖尿病や動脈硬化などは運動と栄養の影響などで、認知能力も頭の使い方や重金属の影響などで老化を加速して行くと病気と言われるだけで、おそらく150歳か200歳くらいまで生きていたら全員がなるだろう状態なわけです。
ちなみに女性の閉経というのは50歳くらいで起こってきますが、これは生物学的に非常に珍しいようです。ほとんどの生物は死ぬときに向けて全体に機能低下して行くようにできているようですが、人間に限ってはそれよりうんと早く女性の生殖能力だけが機能停止します。これは、人間の子どもの成長が他の動物と比較して異様に遅いため、2世代保育を必要としてきたためにそれに適応し閉経するようになってきたのではという予測がなされているようです。しかし、人間の予測に過ぎないので実際の理由は不明に違いないでしょう。まだまだ科学も不確かです。

アンチエイジングなどと言いまして、多少見栄えを若く見せるのが流行っているようですが、内部の機能は20歳を越えると概ね着実に低下する運命にあるわけです。
いくら、美容整形しても、薬を飲んでも、サプリメントを摂っても、私の考える人間に適した食事法を実践しても、結局、老化による機能低下の加速を鈍化することはできても、逆に機能を上げることは不可能です。
しかし、しかし、しか〜し、真のアンチエイジングが可能な機能が一つだけあることに私は気付きました。それは筋肉です。筋力はいくつになっても適切なトレーニングで強化できることが分かっています。心臓の筋肉の心筋も運動している人は機能が維持向上できるらしいですが、何せ不随意運動しているのでコントロールがしにくいですし、直接意識的に機能低下させずに機能向上させ続けることが可能な器官は骨格筋の他に存在しません。
要するに筋トレこそ人類の発見した究極のアンチエイジングであると言えます。
このことから栄養よりも圧倒的に運動のほうが重要であることが分かると思います。
そして、ボディビルダーの方を見ると分かりますが、4、50歳頃までは目に見えて筋肉を成長させ続けています。逆に20歳のボディビルダーは、まだまだ細くて発展途上という感じです。最近、スポーツ選手の選手寿命が多少延びているのも、スポーツ栄養学の影響よりも筋トレの影響の方が大きいのではないかと私は思っています。

 筋肉の生理学

ここで、皆さんが誤解している生理学的事実をお教えしましょう。生理学的事実として筋力は筋断面積に比例するのです。そして、筋肉というのは収縮する機能を持った組織です。よく、ボディビルダーは筋肉があっても筋力が弱いとか、見せかけの筋肉とか毛嫌いする人がいますが、生理学的に筋力が筋断面積に比例するのは事実です。
他人と比較してムキムキの人が細い人より力が弱かったというのは、体型や筋肉の質、神経の伝達能力やスキル、その日の調子等の問題で起こり得ます。これは筋肉が見せかけなわけではなくて、出力の効率の悪い人だと言うだけで、その細い人が更にムキムキになれば更に強くなりますし、そのムキムキの人が細くなれば弱くなります。ここで要素還元論的な生理学ではありますが、他人と比較して云々は生理学的事実を無視する根拠になりません。
実際、世界レベルのボディビルダーだと、100kgのバーベルを使うのなんてウォーミングアップです。スクワットという脚の運動においては200kg、300kg人によっては400kg近くの重量を使用してトレーニングしています。世界レベルのボディビルダーになろうと思うといずれかの種目で最低200kgは扱える体力が必要です。弱いですか?
時々、肥満されているのに自分は筋肉がつきやすいタイプだなどと、筋肉と脂肪を勘違いされている方がおられます。我が国は相撲の影響でしょうか。脂肪と筋肉の外見の違いもよく分からない方が割とおられることは確かです。
ですから、個人のあなたが体重をそのままに筋力が強くなると、筋肉は増えてその他の何かが減っているのです。体重、体型が変わっていないから私は歳をとっても大丈夫などと思っている日常生活動作しかしていないあなたは、年間に1%ずつ筋力=筋断面積は失われて、他の何かに変わっていっているということなのです。あなた個人が体重そのままで筋量が増えれば間違いなく筋量の少なかったあなたよりは強いんです。
その唯一のアンチエイジングの方法をボディビルダーは知っているのです。あんなにムキムキになるのは嫌だと言っているあなた、なる方法が分かりますか?分かるのならヨボヨボで寝たきりになる前に何とかできると思いますので構いませんが、分からないのなら嫌だとか言っている場合じゃないですよ。特に女性に筋肉をつけるのに抵抗がある方が多いように思いますが、女性は頑張っても余程の素質でもない限りそれほどムキムキにもなりませんし、高齢になって筋力低下の害を受けやすいのも女性ですので、特に女性にとって筋トレは重要に思います。本当に寝たきりになったら死活問題ですから。

その時は病院へ行けば大丈夫と思っているあなた。実は全然大丈夫じゃないんですよ。私の知る限り、筋力をつける近道を医療従事者で知っている方に出会ったことがありません。理学療法(リハビリ)なんてまだまだマッサージに毛の生えた程度のものです。あなたの筋力をつけるノウハウなんて全くありません。まして、医者なんて頭でっかちに育った運動嫌いが大多数ですから、あなたに適切な運動なんて指導できるわけがありません。逆に弱っているところに安静を指示されかねません。どうしますか?

前置きが長くなりましたが、ではどういう運動が筋力を強くする運動かということに話を移しましょう。

 日常生活動作、有酸素運動、無酸素運動

まず、運動を分類してみましょう。
先程から出てきている日常生活動作というのも一つの運動ですね。それ以外の運動を区別しますと、有酸素運動と無酸素運動というのに分かれます。
要素還元論的には無酸素運動は酸素なしにクレアチンリン酸やグリコーゲンをエネルギーに変える運動で有酸素運動は酸素を使うことによって脂肪をエネルギーに変える運動でというのが本来の定義だと思うのですが、実際には呼気ガス分析や採血をしながらやらないと分からなかったりするので実用的ではありません。
ですので、私なりに分類し直しますと、運動強度が高く短時間しかできない息が上がる前に継続できなくなる運動が無酸素運動で、運動強度がそれほど高くなく長時間続けることができ ますが、そのまま続けていると息が上がることによって継続できなくなる運動が有酸素運動と呼ぶことにしましょう。言い換えると、筋肉の力が出せなくなって継続できなくなる運動が無酸素運動で、息があがって継続できなくなる運動を有酸素運動ということにします。

運動強度の指標としては酸素摂取量などを用いる場合もありますが、計測が困難なため、一般的に心拍数を用いることが多いようです。
最大の運動強度は最大心拍数であるということで、最大心拍数というのは生活環境の影響を受けず220−年齢の値になると言われています。運動習慣があろうが無かろうが、人間0歳では220回/分まで心拍数が上がりますが、100歳になると心拍数が120回/分までしか心拍数が上がらないということです。
一般的にこの最大心拍数の60%〜80%や65〜85%の強度で30分以上継続するのを有酸素運動と言うようです。これには呼吸器、循環器系の機能改善とか脂肪を燃やして脂肪を代謝させやすい身体にするとかいう意味はあるかもしれませんが、私は有酸素運動に加齢による筋力低下を予防する効果は低いと思っています。実際、毎日歩いていたとか泳いでいたという方が、筋力低下で膝が痛くなったと病院を受診されるケースも多々あります。また、持久力に挑戦する運動で有名なマラソンなどでは突然死のリスクが高く、それほど運動習慣もない方が急にやるのは危険だと思います。有酸素運動の最大運動強度が80%〜85%までというのは突然死を防ぐ意味もあるのかもしれませんが、毎回脈拍計をつけながら運動するって面倒です。

しかし、無酸素運動で有名な100m走や重量挙げで突然死とか聞きませんよね。たまにベンチプレスという仰臥位でバーベルを手で持ち上げる運動中に、首がバーベルの下敷きになって亡くなる方はおられますが、それは運動で死んだわけではなく首が絞まった事故で亡くなっているんですから、運動のために亡くなられたとは言わないでしょう。
これ不思議なのですが、なぜ皆さんは有酸素運動が安全で力を使う強度の高い運動が危険だとかいう妄想を抱いているんでしょう。もう少し単純に自然に現実を直視しましょう。

 筋肉の適応反応

では、もう薄々お分かりだと思いますが、唯一のアンチエイジング効果のある究極の無酸素運動=筋トレについてのお話をしましょう。
先程の私の定義の通り、短時間しかできない運動強度の強い運動が無酸素運動ということですが、何故それに筋力増強効果が高いのでしょうか。
単純に言いますと適応反応ということです。高地に行けば酸素を運ぶ血液中のヘモグロビンが増えるようなものです。

考えてみますと、誰でもきつい仕事についたら最初はきつくても徐々に慣れるということを我々は知っています。これを適応と呼んでいるわけです。また、大きい筋肉は大きい力を発揮できることを知っています。個体差は多少あっても、筋肉の大きい人の方が概ね力は強いものです。だから、高強度な運動が必要な環境に身を置けば、それに慣れて筋肉は大きくなるということです。

では、運動の強度以外の要素についても考えてみましょう。

その他の要素として容量と頻度があります。
多くの運動経験の無い方は筋トレと言うと容量も頻度も高い運動をしなければ運動にならない、筋トレの効果が無いと思いがちです。

では、容量、運動の量について適応反応から考えてみましょう。適応反応から言えば運動強度は高いのが良いことは分かりました。では、強度の高い運動で量をこなすことは可能でしょうか?運動の最初は高強度な運動が出来ても、量をこなしていると徐々に強度が落ちてきてしまいます。すると、先ほどの運動の分類で言いますとこういった運動は有酸素運動という心肺に負荷をかける運動となり、筋肉の強度を求めることが不可能になってしまいます。要するに量を求める運動をするとそれは筋力、筋肉量の適応ではなく、心肺機能に負担をかけ持久力をつけようという適応になってしまいます。
もちろん心肺の持久力をつけることも重要ではありますが、筋力をつけようという運動には不利な運動になるということです。

最後に運動の頻度についても適応から考えてみましょう。
高強度で低容量の運動への適応が筋トレになるということが分かりました。では、どれくらいの頻度でやればよいのでしょう。
これも実際に高強度で低容量な運動をしてみると分かりますが、翌日、翌々日などは筋肉がパンパンに張って力が出せるような状態ではなくなります。また、そういうような運動でなければ筋力を強くするという適応が起こらないとも言えます。
そこで、無理に運動しようとしてももちろん前の運動ほどの強度が発揮することができません。要するに回復の時間がないと筋トレの効果が得られないということです。
そして、頻度としては人によって回復力に差はあるとは思いますが、概ね1週間に1度程度の頻度で十分と言われています。

このように適応反応から考えると、高強度、低容量、低頻度な運動が筋トレに最も効果が高いことが分かります。よく、高強度の運動が辛いとのことで、強度を下げて容量と頻度を上げようとする方がおられますが、これは有酸素運動をしているのであって、無酸素運動である筋トレにならないということが分かって頂いたと思います。

 休養≠安静

ボディビルダーの方でもトレーニング以外はできるだけ動かない方が筋肉の超回復が起こると思っている方も多いですが、私は通常通り活動的に生活している方がある程度の有酸素運動の効果も期待できますし、より筋力をつけやすいと考えています。
回復=休養=安静という考えを信じている方が多いように思いますが、実際は安静に適応反応してしまい、逆に機能低下を招く危険性の方が高いと私は考えています。筋トレをしてそれ以外は安静にすることは、血圧の降圧剤と昇圧剤を両方飲んでいるようなものだと思っています。どっちに転ぶか分かりません。

実際、現在のところ医学論文で床上安静を支持するものは一件も無いのです。しかし、病院へ行きますと、とりあえず安静にとか、安静のために入院しましょうとかいう話をよく聞きます。
ほとんどの場合、「安静のために入院しましょう。」と言う医師に、安静にしてもらった方が良いと思っている意識はないと思います。ただ、「入院しましょう」というと何故?と疑問を持たれますし、「状態の変化も診やすいし処置もしやすいので経過観察のために入院しましょう」と言うと、医療者側の都合で患者さんのことを考えていないように思われるのもあり、そのように言う習慣になったのかもしれません。
ドラマなどでは絶対安静面会謝絶なんてのを重症感を表現するのによく使われますが、そういうものを支持する医学論文は無いのです。しかし、そういったドラマなどの影響で、一般の方々には回復=休養=安静という強い思い込みがあるのかもしれません。
実際、痛みや機能障害のある方が回復のために安静にしたとします。すると、安静は逆に機能低下を引き起こします。そして、機能低下は痛みや機能障害を助長するという悪循環に入り、寝たきりになっていく方が多くおられるように思います。これを断ち切るには痛みや機能障害が起こった時も安静にはせず、機能回復に努める、つまり究極的には筋トレをする方が有効であると考えられます。

 高強度、過負荷とは?

では、筋トレの話に戻りまして、短時間しかできない無酸素運動とはどういった運動でしょうか?筋肉はその長さを変えながら収縮するか弛緩するかの運動しかできません。筋トレの動作は曲げ伸ばしを繰り返す、つまり筋肉は伸びたり縮んだりのレシプロ運動を繰り返すわけですが、その中でどういった運動が良いのでしょうか?よく、この種目を10回3セットなどと、意味の分からない数字で済ませている本を見かけます。重さの選択法やその動作にまで注目したものがほとんどありません。
トレーニングを始められた方のよくある疑問は、回数を多くやったほうが良いのか、できるだけ重い重量でやったほうが良いのかということです。
1回しか挙げられない重い重量を1回挙げるのか、それとも、2、30回挙げられる重量で反復運動をするのか。それを何セットやるのか。それを週に何回やるのが良いのか。
要素が多すぎて分からない人が1種目10回3セットを週1回とか習慣的に言ったんでしょうね。まあ、大きく間違ってはいないとは思いますが、10回も、10回しかできない重量でというのが重要なのですが。

では、運動を物理学的に考えてみましょう。一般に筋トレとは高強度、過負荷とか言いますが、最大にする強度、負荷とは何でしょうか。学校で習う力学では力とか速さとか加速度とか時間とか距離とか色々な次元の要素がありますが、結局、私が辿り着いた結果は力(重量)でも距離(回数)でもなく、単位時間にいかに大きなエネルギーを消費するか、つまり仕事率が最大の運動をするという一語に尽きます。
仕事率というのはパワーと同じ次元の値で、力と速さをかけた値を最大にということです。
力のいる運動か速い運動か、その両方を追求する運動ということになります。別の言い方をしますと、短時間にエネルギーを使いきる運動ということになります。
簡単に言いますと、パワー=力×速さ=力×距離÷時間=重量×回数÷時間ということです。
しかし、実際にこれを計算した最大パワーを発揮できる重量は、最大筋力の30%程度の重量になるそうです。
最大筋力の80%の重量が10回程度の反復ができる重量と言われていますので、30%はかなり軽い重量ということになります。しかし、これは間違っていると私は考えています。

 筋収縮

筋肉の運動は収縮と弛緩しか無いと言いました。そして、筋収縮は3種類の運動に分類できます。筋肉が縮みながら収縮する短縮性収縮、筋肉が伸び縮みすること無く同じ長さのまま収縮する等尺性収縮、筋肉が無理矢理引き伸ばされながら収縮する伸張性収縮の3つがあります。
そして、先程の最大パワーの筋収縮というのは短縮性収縮のパワーの話であって、実は一番大きな筋力を発揮できるのは伸張性収縮であり、その次が等尺性収縮で、短縮性収縮は一番小さな筋力しか発揮できないのです。
一例をあげますと、1mの高さまでジャンプするのに必要な筋力と、1mの高さから飛び降りて着地するのに必要な筋力は物理的に同じはずです。しかし、1mの高さにジャンプするよりも、1mの高さから飛び降りて着地する方が楽じゃないですか?そして、ジャンプするのに使われる筋力が短縮性収縮で、飛び降りて着地するのに使われる筋力が伸張性収縮なのです。ということで、伸張性収縮の方が力が発揮できることがよく分かると思います。
この短縮性収縮よりも伸張性収縮の方が力が強いというのを、ノーチラスというトレーニングマシンの開発者のアーサー・ジョーンズさんは筋肉摩擦があるためとおっしゃっています。筋肉の発生できる力は伸張短縮の動作で同じでも、筋肉内に摩擦が発生するため、短縮性収縮の時に力が弱くなり、伸張性収縮の時に力が強くなるとおっしゃっています。そして、動作の無い等尺性収縮では摩擦の無い筋力が計測できるということです。この理論はなかなか面白いと私は思いましたが、まあ雑学ということで。
そして、一気に強いパワーを発揮するには、筋肉の短縮、伸長を繰り返す運動をする間に筋肉の収縮を維持する必要があります。短縮性収縮と伸張性の弛緩を繰り返すと弛緩の部分では筋肉に休息を与えていることになり、パワーの低い運動になってしまいます。

 効果的な筋トレ

先程のパワーの式で速さは速いほどパワーの値は大きくなると言いましたが、伸張性収縮では速くなると筋肉の弛緩になってしまい、逆に筋肉にかかるパワーは小さくなってしまいます。
正確に伸張性収縮にかかるパワーが測定できれば分かりやすいのですが計測困難なため、伸張性収縮ではゆっくり伸ばすとしか言えません。特に初心者はどうしても筋肉を弛緩させる方が多いので、意識的にゆっくり伸ばす(重量を下ろす)ようにした方がより効果的な運動ができると思います。

結果的に最大パワーの運動ということは、短時間しかできない運動ということになるので、10回程度の反復回数の運動ということになっているのだと思います。仕事率、パワーというのは単位時間あたりのエネルギーの消費ということですから、短時間で一番エネルギーを出し切った感のある運動と主観的には思って頂いても結構だと思います。

ちなみに同じ運動を数セットと書いているものが多いですが、結果的にパワーの低い運動になり有酸素運動に近くなってしまうので、あえて何セットもする必要はないと私は思います。きっちり短時間でエネルギーを使い切れば何セットもできないということです。何セットもできるような出し惜しみをする運動は、逆に仕事率を下げてしまいます。

そういった高強度な運動を週に1回程度やりながら、普段は活動的に暮らすというのが重要に思います。この週に1回というのも体調などに併せて変化させても構いません。トレーニングの前日に激しいスポーツをする機会があれば延期しても構いません。だいたい初心者の方は高強度な運動ができないのですから回復も早いので、週に2、3回のトレーニングでも構わないと思います。また、筋力が弱いために高強度な運動をできない女性や高齢者も、もう少し頻度が多くても構わないと思います。また、逆に筋力が向上し、かなりの高強度でトレーニングができて1週間では回復できないのであれば、更に頻度を下げても構わないと思っています。さすがに月に1回では少なすぎると思いますが、普段活動的にしていれば2週間に1回程度の頻度なら、逆に筋力が向上していることも私は体験的にはありました。

よく、何々大学の教授が指導する筋力トレーニングなどと、日常生活動作程度の軽い運動が紹介されたりしています。はっきり言って効果が無いか遠回りです。歩行能力の危機に晒された方に、あえて効果が無いか遠回りなことをさせるのって馬鹿馬鹿しくないですか。受験までに時間のない受験生に試験と関係のない勉強をさせるようなものです。筋トレは確かに最初はキツイですが、翌日に筋肉痛にもならない運動では効果が低いと考えられます。筋トレをした翌日に筋肉痛にもならないようでは、それは日常生活動作か有酸素運動程度の強度の運動をしたと逆に不安になるくらいの気持ちが必要だと思います。

まとめますと、パワーとしては短縮性収縮ではできるだけ速い動きで、しかし、伸張性収縮では弛緩させず筋収縮を維持し、1回1回の反復運動での距離が長い程パワーの大きな運動になるので負荷のかかる有効可動域を広く使い、筋肉に負荷をかけるために靭帯や腱を使う反動を伴った動きはせず、限界まで力を出し切る運動を週に1回程度やるということです。最大パワーの運動をするには出し切るということが重要で、これをやらないとパワーの低い運動になってしまいます。筋トレの動作は結果的にきつい動きをするということです。人間どうしても楽な動きをしようとするので、動けなくなるまで大きく速く上げてゆっくり下ろすということに集中しましょう。ただそれだけなのですが、それをやらないと折角の筋力増強効果、唯一のアンチエイジングができなくなってしまいます。やるかやらないかだけで、誰にでもできることです。頑張りましょう。

この限界まで出し切るというのが、効果が早く出る人と出ない人との分かれ道だと言われている方が、トレーニング関係者には多くおられます。ハイパワー、高仕事率な運動と言いましたが、それを実現するために一番重要なのが、この力を出し切るかどうかと言えるかもしれません。確かに限界まで出し切る運動は、一瞬ですがきついですし、翌日には筋肉痛にもなります。それが嫌で出し切らない人が多いのかもしれません。しかし、限界まで出さないと本当に自分が唯一のアンチエイジングの機能向上ができているのか確認できません。限界まで出し切っているからこそ、限界が伸びていきますし、成長が確認できるのです。限界だと思っていた重量が軽く感じられたり、限界だと思っていた回数が伸びていったりします。限界まで出し切っているからこそ、機能が向上しているのを確認できるのです。
ということで、一瞬の辛さとアンチエイジングか、老化に任せて機能低下させ節々が痛くなるか、どちらを選択するかはあなた次第だということです。

 筋トレまとめ

この筋トレの考え方でも分かったと思いますが、人間、生物に普遍的なストレスに対する適応反応から単純に自然に、筋発達を起こすにはどういった運動が良いのかと考えただけで、要素還元論的にこのホルモンが出るからとか、筋衛星細胞が増えるからとか、統計的にこういった運動法が他の運動と多人数同士で比較して有効性があったとか、そういった科学的と言われる手法を用いなくても正しい方法が見えてくるものです。

尚、身体の部位別の個々の運動種目などについては良書が多々出ておりますので、そちらを参考にされたら良いかと思います。参考までに筋トレルーチンの組み方だけ紹介しましょう。

まず、身体にかかるパワーを最大にということで、力の強い種目から弱い種目へとやっていくのが良いと思います。力の弱いパワーの小さい種目を先にやって疲労しますと、力の強い大きなパワーを使える種目で最大パワーが出せなくなってしまいます。
ほとんどの方に必要ないのですが、あまりにも力が強すぎてとんでもない重量を使ってトレーニングできるようになると腱や靭帯に怪我の危険が増すため、逆に強い種目での重量を下げるために前もって弱い種目で事前に疲労させるというありえない人も世の中にはいます。しかし、私程度のレベルの一般人には考えなくても良いことだと思います。
次に鍛えたい部位を優先するということです。これも先ほどと同様、最大パワーで運動する部分に効果が高いわけですから、鍛えたい部位からやるというのが良いということです。鍛えたい部位で強い種目からやるというのが二つを併せて言えることです。
どういう種目の組み方でも言えることですが部位が被る種目を連続でやると、後でやる種目が疲労した状態となりパワーの低い運動になるため、効果も低い運動となってしまいます。ですので、そうならないように種目を組むことが重要です。
分かり難い時は2種類の種目の順番を変えてみて、1種目目にやる時よりも2種目目にやる時にパワーが出ないのを感じるなら、そういった組み方はやめるということです。

そして、高強度な無酸素運動というのは筋肉の運動の限界に挑戦することで、呼吸の限界に挑戦する有酸素運動ではありません。息があがって運動を継続できなくならないように、あくまでも筋肉のパワーの限界でできなくなるまでやるように、種目間には適当に休憩を取りながらやりましょう。

インド建国の父マハトマ・ガンディーは実は健康本も出していまして、私は彼をかなりの健康オタクだと思っているのですが、そのガンディーがこう言っています。
「私はどんなにたくさん仕事を持っていようとも、人間に食事の時間があるのと同様に、身体訓練の時間を常に作っておかなくてはならない、と信じている。」

 


 

第四章 健康な心の作り方

 心とは?

健康な心と言われますと、自分の心が不健康なのか?と不快感を覚える方もおられるかと思います。私もそう思っていました。自分の考え方がおかしいと思っている人なんてそういないでしょう。
しかし、私は30歳頃にギックリ腰を起こし、椎間板ヘルニアもあったのですが、その後も何度かギックリ腰を起こしました。そして、最近の知見では腰痛は生物・心理・社会的疼痛症候群という捉え方がされ、必ずしもどこかが解剖学的に壊れた生物学的損傷、構造異常がない場合がほとんどであると言われてきています。となると、腰痛を繰り返していた私は心に問題があるということになります。
ここで、整形外科の学会へ行くと、腰痛が患者さんの心に問題があると言うと患者さんが可哀相だとか、では、整形外科ではなく精神科の病気になってしまうとか、よく分からない医療者側の感情の問題で現実を隠そうとする医師も多いように思います。
しかし、私は整形外科医であったが故に最新医学情報を知り得たので、これは治すしかないと思い更に心の健康を追求した結果、現在は全く問題なく腰にベルトも巻かずガンガンにトレーニングできるまでに治癒しました。

そして、現在の精神医学や心理学もやはり要素還元論的な分類モデルであり、私の心の健康には使えないものが多く、その時から私が単純に考えて使えると思った健康な心の作り方、心の健康法についてここに紹介させて頂きます。

まず、心とは何でしょうか?私が最初に心理学について影響を受けた本があります。私の整形外科の師匠である石田勝正先生の「抱かれる子どもはよい子に育つ」という本です。小児整形外科をされていた先生が多くの赤ちゃんを観察されているうちに、心の発達は非言語的なコミュニケーションである抱っこから始まるわけですが、そこから健康な心、自我が発達することに気付かれました。非常に良い本なので皆さんも一度読まれると良いと思います。育児書かと思いきや、かなり素晴らしい心理学の本です。
その中で石田先生は心は交流するためだけにあるとおっしゃられています。確かに要素還元論的になりますが、脳細胞というのは細胞から細い神経線維の脚が出ている構造で、電気信号を伝達するか抑制するかだけです。脳細胞同士が交流しているのが複雑になると、心になるわけですから、現実的には心は交流するためだけにあるわけです。実際、人間レベルで考えても私たちの心は自分の心の中や、他人や周りの出来事と交流しているだけですよね。
ここで、心は魂であってとかスピリチュアルに考える方もおられるかと思いますが、実際脳損傷があれば精神=心に障害が出るわけですから、現実的に自然に単純に考えて我々が存在感として感じている魂は脳にあるわけです。
そして、存在感を実感する、自我を形成するには非言語的な他者、特に母親との抱っこなどのスキンシップによるコミュニケーションが重要になります。自我の形成に他人との交流は不可欠ということになります。
実際、この新生児期に他者、主に母親との非言語的な交流、抱っこや母乳育児が断たれた、例えば新生児室に長期間入れられた子どもなどは有意に精神疾患を発症しやすいことが知られています。これを石田先生は自我の発育が障害されたためと考えておられます。
これは人間だけではなく、猿でも生まれてすぐに母親と別の檻で一匹だけで育てた猿と、母親と一緒の檻で育てた猿とでは、大きくなってから一緒の檻で飼うと明らかに行動が異なります。母親と一緒に育てた猿は檻の中を元気に他の母親と飼われた猿と一緒に跳び回って遊びますが、別にされた猿は一匹で檻の隅っこで震えています。このように自我の発育に猿でも非言語的コミュニケーションの抱っこは必須条件のようです。
また、自分の存在感などを我々人間が高度に意識できているのは言葉による部分、言語的な部分も大きいと思います。この言葉というのも親や他人から教えてもらわないと使えるようにはなりません。実際、狼に育てられた少女の話は有名ですが、もちろん言葉も話せず二足歩行もできませんでした。
結局、自我や魂だと思っている自分の心は、環境や他人から与えられたものであると言えます。

 ロボティクス、知情意

では、交流するためだけにある心って何でしょうか?ここで私は心理学や精神科の本では複雑に分類し過ぎに感じています。そこで、どう単純に考えたかと言いますと、ロボティクスという考え方がありまして、眼の構造からカメラを作ったり、耳の構造からマイクを作ったりと、動物の器官を参考にものを作るという手法です。そして、コンピューターの構造は脳を参考にしているわけで、逆にコンピューターの構造から心の構造を考えてみました。
コンピューターはCPUという演算する、要するに考える部分があります。これは意識だと考えられます。そしてCPUは内部のメモリーや外部のメモリー、入出力デバイスとプログラムによって交信することにより動いています。このRAMやROMやハードディスクといった内外部のメモリーを記憶だと考えました。コンピューターで心を作れるかという部分から自分の心を考えてみたということです。
そして、コンピューターはソフトと言われるプログラムによってメモリーや外部の入出力装置とCPUが計算、交信して動いているわけです。

では、人間の心にあってコンピューターに無いものは何でしょうか。その一つは感情という部分だと思います。
人間はこの感情という部分を巧みに使って記憶や行動を上手くコントロールしています。将棋の羽生名人が言っていましたが、コンピューターの思考過程は限りなく多くの打ち手、悪手をすべて計算してその中から最善の一手を探すのですが、人の思考過程はできるだけ無駄な手を考えず、有効な手の中で最善の一手を探すということでした。これは、おそらく感情を用いた記憶法で効率的に無駄な考えを排除しているのだと思います。

以上のように人間の心を、意識と記憶と感情という部分に分けて考えると分かりやすいことに気付きました。心理や精神の本を読んでいますとこれらをきっちり分類せずに、記憶を意識と呼んだり、感情を心と混同して言ったりしていますので、注意してこの3つの要素で考えていると非常に心とは何かが見えやすくなりました。また、感情を情動と言ったり気持ちと言ったり、記憶を思い出とかトラウマとか言ったり、意識を心と言ったり、言い換えも多々見られます。これは昔から知情意(記憶、感情、意識ってことですよね)などと心を分類したりしているので、別に私の専売特許でも何でもないんですよね。調べていきますと、心の健康法なんて2500年前の釈迦や孔子が言い尽くしています。その時代を枢軸時代と言うそうで、ソクラテスなど、大哲学者、宗教の開祖が出てきた時代なんですよね。結局大哲学者や大宗教教祖が何をしたかと言うと、大きな意味で健康法を説いただけだと私は思っています。

ここで、心の病気についてですが、心の病気とはコンピューターで言うとソフトの問題だと思いませんか?それなのに、何かと医学と言うのは物質であるハードにこだわる傾向がある気がします。気持ちよくなるとβエンドルフィンやセロトニンが出て、ストレスがかかるとアドレナリンや副腎皮質ステロイドが出てなどは、ソフトが動いた結果であると私は思っています。精神疾患の薬物治療なんて、パソコンでいうと、ソフトの問題で画面にうまく表示できないのにディスプレイを直そうとしているのと同じではないかと私は感じます。
その昔、ロボトミー手術と言って、凶暴な人の前頭葉を切除していた時代がありました。これは結局感情を表出する脳の部分を切除していただけなのですが、これなどはその最たるものだと思います。ディスプレイの表示がうまくいかないから、VRAMを取っちゃうみたいなものです。映らなくなるだけです。凶暴な行動をするソフトはそのままなのに。

 意識について

では、意識とは何でしょうか?これらをはっきりさせていないから、心理学や精神医学の内容が曖昧になっている気がします。私は現在の心の動きと定義させて頂きます。人間誰しも現在、今にしか生きていないわけですが、今の心の動きを意識としましょう。パソコンのCPUも今現在、入出力、演算する部分ですよね。

では、今あなたが意識している意識、心の動きがあります。それを実在意識とか顕在意識とか表在意識と呼びます。この意識の特徴はまず、一つのことしかできないということです。要するに感情を伴った一つの焦点に集中してしまうということです。次に高度な論理的思考ができるという特徴があります。疑問を持ったり、否定することが理解できたりします。また、自分の存在感、自我と感じている部分というのはこの実在意識のことだと言えます。

一方、潜在意識や無意識と呼ばれる意識の部分も確かにあります。脳神経細胞の交流が心でしたが、実在意識だけの脳神経細胞が常に動いているわけではありません。心臓を動かしたり、体内環境の恒常性を保ったり意識しなくても勝手に動く不随意運動、自立神経という部分もあります。これらはある意味潜在意識の働きと言えます。また、実在意識は1つのことしかできないと言いました。確かに、文章を書きながら計算をするとか高度なものを2つ同時に意識的にすることはできません。しかし、自転車に乗りながらお菓子を食べながら隣の友達と話したりできます。しかし、恐らく実在意識は友達と話をしていることしかしていませんが、潜在意識、無意識は自転車に乗りながらお菓子を食べてくれたりもします。
心臓を動かしたり呼吸したりするのは自律神経と言って意識的に動かさなくても動かせる神経に支配されていると言われていますが、もしかしたら、記憶のない胎生期には意識的に動かそうとしていたけれど、慣れてしまって自動的に動くようになっただけかもしれませんね。実際、随意神経と言われるものの支配を受けている筋肉も、動かそうとしなくても、すぐ隣で爆発したらビクッと勝手に動いたりしますよね。これは随意神経だと思われている骨格筋も、無意識の自律神経の支配を受けているとも言えます。
要するに潜在意識、無意識というのは反射的に反応してくれたり、実在意識で何度もやったことのあることは自動的にやってくれたりするわけですが、否定的に考えたり疑問を持ったり論理的には考えてくれませんし、そこに自我はありません。自転車や車の運転のように最初は意識的にしかできなくても何度も練習するうちに無意識にできたりしますが、難しい論理的思考を要することはなかなか無意識、潜在意識ではできません。無意識に数学の問題を解くとかは無理だったりしますよね。もちろんそればっかりを考えている数学者などは寝ている間に潜在意識で問題が解けたりするかもしれませんが。つまり、潜在意識は実在意識以外の全てをやってくれているのです。ある意味、実在意識は大きな潜在意識の一部分を高度な論理を持ちながら移動していると言えるかもしれません。

皆さん、3、4歳までの記憶は無いと思います。では、その時の意識が無かったのでしょうか?なぜ、3、4歳からの記憶があるのでしょうか?それは自我、存在感となるだけの記憶の量が蓄積されたためだと私は考えています。ある程度の記憶データの蓄積が無いと、意識があるという自我、実在意識、人間の高度な知能は構築できないということです。
そして、誰もが自分はいるという存在感を感じていると思います。そういう信念を無意識に持っていますよね。そして、結局この存在感、自我も近くは親との交流によって、大きくはこの世によって育まれたものだと言えます。人間は自分を万物の霊長なんて言ってますが、人間の心なんて無の状態からこの世によって作られたものだと考えられます。万物の霊長としてあの世から連れてこられたわけではないということです。そして、我々の思考、意識、魂、生命、霊性は自我、自分がいるという存在感を認めないと始まらない、科学も何もかも全ての思考はそこから始まると言えます。

 記憶について

では、そういう自我、存在感を感じる記憶について考えてみましょう。
まず、記憶も定義してみましょう。私は過去の意識したことの蓄積であると定義しています。意識は現在の心の動きで、次々に過去となる心の動きが記憶として蓄積されていくということです。

そして、これも意識と同様に三層構造で考えています。これは石田先生の考え方でもあります。
まず、表在記憶というのがあります。これは、思い出せる記憶のことです。昔何をしたとか、何を知っているとか、それが表材記憶です。
次に潜在記憶というのがあります。これは、思い出せない頃の記憶で、多くは感情と結びついて判断基準に使われている記憶です。ほとんどの人は3、4歳からしか記憶が無いのは、それまでの記憶は思い出せないのですが、判断基準として心を動かすのに使っているのです。お母さんのお腹の中に生まれた胎生期から3、4歳までの記憶が潜在記憶と言えるかもしれません。すべての人は母親の胎盤にいたことがあります。そして、人は柔らかいものに触れるのが好きだったり音楽が好きだったりします。石田先生によりますと、これは人生が始まった胎生期の環境が心地良い環境の基準となっているからだそうです。要するに胎生期にいた胎盤というのは柔らかく自分を包んでくれているもので、しかも、その中では母親の心音がドンドンとリズムを刻み腸の音がキュルキュルとメロディーを奏でているそうです。
精神異常者や犯罪者などは、この潜在記憶が作られる3、4歳までの間に親からのスキンシップを受けられなかったり虐待を受けたりしていることが多いようで、この潜在記憶を作る時期は重要だと石田先生はおっしゃっています。新生児室はほとんどの赤ちゃんにとって有害で、ほんの一部の赤ちゃんにだけ恩恵のあるものなのに、その昔は全員入れられていました。きっと、私の生まれた頃はほぼ全員、そういった精神障害のリスクに晒されいたと思われます。最近は石田先生やそういった先生たちの努力によって母子同室の病院などが増えているようです。

そして、潜在記憶よりも更に深い部分で、コンピューターでも機械語の上にOSと呼ばれる基本ソフトがないと何も動きませんが、人間にも本能という生きるための基本OSが記憶されています。石田先生はこれは当然遺伝子に書かれているはずだとおっしゃっていますが、ノーベル賞受賞者の利根川博士にそんなものは書かれていないと否定されたそうで、ノーベル賞受賞者でもよく分かってないとおっしゃっていました。やはり、科学は人の意見だということですね。生体内を一定の環境に保つホメオスタシスや環境に適応する能力、成長し加齢し死んでいくというプログラム、食欲、睡眠欲、性欲などの基本的な欲求などは、ノーベル賞受賞者が否定しても、この本能という記憶が遺伝子に書かれていなければあり得ない心の作用だと思いますよね。

 記憶されるものとは?

では、人間が記憶するものとはどういった情報でしょうか?
前に羽生名人とコンピューターの記憶法の違いを説明しましたが、機械ならビデオに録ればカメラに写った映像を全て記憶します。しかし、人間は印象に残ったことしか記憶しません。これはどういうことかと言いますと、感情を伴った出来事を記憶するということです。人間は感情を伴わないことを記憶しにくいのです。だから、同じ出来事を体験しても人によって覚えていることが異なることは仕方のないことなのです。そして人間は感情を伴った記憶がほとんどなわけですが、これを自動思考や連想と言いまして、出来事の記憶に感情が繋がってしまっているということです。例えば、昨日の出来事で何も感じなかったことを思い出して下さいと言われても思い出せないでしょう。このように人間は感情を伴ったことを記憶し、記憶に感情を自動思考、連想としてマーキングしているのです。
もう一つの記憶することは繰り返し起こる出来事です。例えば自分の名前や誕生日を聞いても最初は嬉しくも悲しくも無かったと思いますが、何度も何度もそう呼ばれるので、自分の名前や誕生日を記憶したのだと思います。受験勉強などを記憶するには興味を持つか、興味のない人は反復するしかないということです。

で、記憶される内容とはどういったことでしょう。まず、自分で体験したことです。これは誰しも一番覚えやすいことですし、事実であると実感しやすいことです。
次に自分で体験していなくても誰かが経験したことを伝聞で見たり聞いたり読んだりしたことも記憶します。このような高度な言葉を使った知識を記憶するのは人間の特徴の一つでしょう。最近では、高度なAV機器の発達により、知識もより体験に近いバーチャルリアリティになりつつあるかもしれませんが。つまり、体験したことのない知識も記憶するということです。
最後に想像や創造したことも記憶します。自分で想像や創造したことは、体験もしていないし誰かの経験の伝聞やバーチャルリアリティでないことであっても記憶できます。物語を考えることや妄想したことなどは全て架空の記憶ですよね。

心に入力される情報というのは五感で感じたことであり、その感覚器も機械ではないので、個性があります。色盲の方はある色が見えないわけですし、難聴の方は聞こえる音が違います。また、使っている言語や語彙力によって、考え方、伝え方も異なってきますし、個々の持つ言葉の印象、意味などによっても受け取り方が変わります。
これらのことを難しい言葉で言いますと、神経学的制約、社会的制約、個人的制約と言われ、これらによって記憶は関係の無いものを関連付けてしまう一般化、いらない情報や記憶を消去してしまう削除、色メガネで物事をみてしまう歪曲という記憶の仕方をします。
実際よくある話で、お母さんが急に歳を取ったと思ったりしますよね。もちろん急に歳をとっているわけじゃなくて、日々、歳をとっていくお母さんを見ているはずです。しかし、お母さんに会った時に過去のお母さんの抽象的な記憶と照合して詳しく観察せずに判断しているのです。見ているようで見ていないのです。逆に、こういっただいたいで抽象的に判断する能力が高いから、人間は高度な知能を持てたのではないかと私は思っています。実際、チンパンジーが瞬間に記憶できる数字の数は、人間より多いらしいんです。人間は瞬間的には多くのものを記憶できない代わりに、経験済みの情報は抽象的に処理できるためにより多くの情報が処理できるのだと思っています。完全に抽象化された言葉というものを使うこともその一因かもしれません。だからよく見なくても、これはお母さんであると言う抽象的な判断ができるんですよね。羽生名人の言っているように、これは悪手と将棋で抽象的に判断できるので、具体的にコンピューターのように全ての手をチェックする必要がないということです。そして、言葉というもの自体、具体的なものではなく、全く抽象的なものですね。そして現実を抽象的に考えられる代わりに、一般化、削除、歪曲といった記憶違い、記憶と感情の間違った連想ができてしまうわけです。そして、お母さん急に歳取ったねとなるわけです。

このように人間は皆同じことを体験し意識し考え記憶しているように思われますが、人間の記憶のメカニズムを考えますと、一人として同じ記憶を共有できないということが分かります。
また、言葉というのもいくら広辞苑があっても、個人個人使っている言葉の意味内容が微妙に異なるものです。例えば宗教と言うと人類に絶対に必要な崇高なものと思う人もいれば、胡散臭い怪しいものだと思う人もいます。同じ言葉を使っていても同じことを言っているとは限りませんし、まして過去の経験をいかに巧みに言葉を使って説明しても、絶対に一人として同じ経験を理解することはできません。この超健康道も私がいくら巧妙に言葉を紡ぎ出したとしても私の考えをそのまま理解できる人はいません。また、言葉というものは時代と共に意味合いも変わっていきますし、未来の人には更に理解できないものになって行きますから、時代に応じて翻訳が必要となります。古文、漢文なんてほとんどの我々現代人にはすっと入ってこないですよね。
これらのことから科学が人間の意見であり絶対真理であり得ないのは、人間の心の記憶法というものの限界とも言えます。

これらのことから言えることは、この世の中で起こる現実、出来事に価値判断的な意味合いは全く無いということです。世の中で様々なことが起こっていますが、それらの出来事は良くも悪くも正しくも間違ってもいないということです。これらに勝手に価値判断基準を付けて感情を感じているのは我々人間であり、あなた自身であるということです。

 感情について

では、実在意識の焦点を作り出し、潜在記憶において判断基準となり、記憶するときの選別方法に使われる感情というものについて考えてみましょう。

感情とは何でしょうか。結局心の価値判断基準と言えると思います。
そして、大きくプラスとマイナスの感情に分類できます。陽性感情と陰性感情と言ったりするようです。もちろん何の興味もないゼロの感情の出来事、記憶もあるかと思いますが、それは感情が無いということで、分類しないでおきます。
プラスの陽性感情としましては、快楽、好き、気持ちイイ、いい気分、嬉しい、楽しい、などのものがあり、マイナスの陰性感情としましては、痛み、嫌い、辛い、悲しい、怒りなどの感情があります。
で、人間の行動パターンとしましては基本的にマイナスを避けてプラスを得ようとします。

そして、人間は感情を3つの方法で作り出します。まず、意識の焦点です。実在意識をその感情に集中します。次に言葉の使い方です。その感情を表わす言葉を思ったり言ったりします。最後に身体の動きです。表情を変えたりその感情を表わす身体の動きをします。

この陰性感情と身体の動きについてですが、通常人間以外の動物では俗に言うストレス、つまり陰性感情を感じる時は生命の危機であることが多く、Fight or Flight反応つまり闘争逃走反応と言いまして、闘うか逃げるかするものなのです。この陰性感情を受けたときに身体を動かせないことが我々人間には多いわけですが、これが心の健康に更に良くないのですが、これについては後述します。

自我や存在感という潜在記憶が蓄積される3、4歳までの記憶の重要性を先程述べましたが、自我や存在感が強い弱いという表現をされているものは、結局、自分に対して陽性感情を抱くことができているかどうかが重要で、自分に対して陰性感情を強く連想してしまっているのを自我が弱い、存在感が希薄であると言っているように思います。その自我の形成期である幼少期は言葉を使えませんから、言葉ではなく非言語的コミュニケーションのスキンシップ、ハグや抱っこが重要になってきます。言葉や生き方を教えてくれる親から虐待されると、社会と良好な関係を持つ良い自分という存在感が持てなくなる、自我が弱くなるのは当然な気もします。

結局、この感情をいかに制御するかが、良い心の使い方かどうかであるということが分かります。万病のもとと言われている心のストレスというのもこの陰性感情の問題ですし、結局人生を支配するもの全てがこの感情の問題であると考えられます。

 ストレスとは?

では、万病の元になるストレスとはどういうものなのでしょうか。
よく、上司がストレスだとか、夫がストレスなどと言いますが、実際、その上司の部下が全員その上司をストレスと感じているとは限らないわけで、もちろん、その夫のことを全ての人がストレスと感じているわけでもありません。実際に殴られてもマイナスな出来事と感じない人もいるわけです。行き過ぎてそういうプレイ中に死んでしまったという事件もありました。いわゆるSMのマゾヒストですね。死ぬほど殴られていてもその人はプラスに感じていたということです。
要するにストレス、心理社会的因子というのは自分で作り出しているものであって、出来事や周囲の世界には何の意味も無いのです。感情というのはあくまでも個々人の価値判断基準であって、周りの世界や出来事には何も価値判断的な意味合いは無いのです。ただ出来事が起こっているだけなのです。

 陰性感情について

では、その他の陰性感情についても考えてみましょう。
よく、私には問題があるなどと、「問題」と良くないことを言ったりします。これもストレスと同様に全ての人にとっての問題でもなく、自分で問題であるという陰性感情と関連付けしてしまった出来事を問題であると思っているだけなのです。
「失敗」などもそうですね。自分で失敗と決めたから失敗であるということです。よく成功者と言われる人が、成功する途中でやめれば失敗であり、成功するまでやれば成功だと言われますし、成功の反対は失敗ではなく何もしないことだともよく聞きます。確かにやってみないと失敗か成功かも分かりませんし、成功するまでやれば成功なわけですから。それを途中でやめた出来事を失敗と自分で陰性感情と関連付けているということです。
「不幸」というのも大きな陰性感情の一つです。しかし、これも自分が不幸であるという感情と連想しただけであって、いくら借金があろうとも家族が殺されようともその出来事に不幸であるという感情は存在せず、自分で不幸だという感情を作っているのです。借金なんて自分で借りて作ったわけですし、家族が殺されたら確かに悲しいでしょうけど、その感情に執着して恨んだり不幸に思ったりするのは自分で選んだ感情の選択なわけです。
悩み、煩悶というのもよくある陰性感情の一つです。これも起こった出来事をマイナスの感情と自動的に繋げているあなたがいるだけで、誰もがそのことについて悩むとは限りません。
貧乏というのも自分の経済状態にマイナスの感情をマーキングしているだけで、全く誰からも認められるものではありません。「金持ち父さん、貧乏父さん」のロバート・キヨサキさんの定義では、年収1億円でも、その年に支出が1億円ある人は貧乏だと言うそうですから、人の価値観以外の何ものでもありません。
次に、病、病気というのも今の体調の変化をそう呼んでいるだけですよね。病気になったからあえて病気だと自分で思う必要もないわけで、私は不快な症状が(この不快も自分で決めているのですが)現れた時には、自分の生活をもっと健康的にしろというサインだと思うだけです。改善して行くうちに自分の免疫力は勝手に治してくれるんだろうなと思っています。これは私の思い込みなのですが、そう思えば万病の元の陰性感情、俗に言うストレスを減らせます。自分は病気であると決めつけて、より自分の状況に陰性感情を抱いてしまい、治らなくなったり酷くなったりする人を少なからず見かけます。
また、これに合わせて被害者意識というマイナスの感情も気をつけなければなりません。被害者意識は自分が被害者だから仕方がないと思っている方が多いですが、これも被害者というマイナスの感情と自分を勝手に繋げているだけなんです。実際、加害者がわざと害しようとしている場合なんてほとんど無いわけですし、最初の考え方のところでも言いましたが、人間なんて間違うものなんです。自分も間違うのに他人が間違えたら加害者だと騒ぎたてて、自分に被害者意識を持つ必要もないわけです。昨今の交通事故のむち打ち損傷なんて、ほとんどその影響だと私は思っています。まして、脳脊髄液減少症などという病気であると陰性感情に輪をかけられると治るものも治らなくなると思っています。
煩悩と言われるものも陰性感情だと言えます。貪欲というのは生命の維持に必要な食欲や睡眠欲、性欲などの欲を含みますが、それに執着して必要以上に求めるようになるのは陰性感情だと言えます。また煩悩の一つである怒りというのも強い陰性感情だと言えます。全ての人が同じ出来事に必ず怒るとは限らないことで、あえて怒っているわけです。相手を非難したい気持ちも分かりますが、怒りも過ぎると自分の健康を害するということに注意しなければなりません。煩悩のもう一つの愚痴というのも注意しなければなりません。別に愚痴っても状況が良くなるわけでもありません。あえて陰性感情を必要以上に作り出して増強する必要はありません。
次の二つは特に避けた方が良いと言われている陰性感情です。それは後悔と取り越し苦労です。後悔というのはどうしようもない過去の出来事に陰性感情を関連させ、それを今また振り返って陰性感情を抱いているという二重にマイナスなことをしているということです。また、取り越し苦労も同様に起こってもいない未来のマイナスの出来事を予想し、現在にマイナスのことを考えているということで、これも二重の陰性感情です。案ずるより産むが易しというやつですね。

 ミュンヒハウゼン症候群

代理ミュンヒハウゼン症候群と思われる母親が、自分を悲劇のヒロインにするために子どもを殺したなどという痛ましい殺人事件が起こりましたが、悲劇のヒロイン(男性は悲劇のヒーロー?)になりたいという部分が人間には精神疾患でなくても少なからずあるように思います。皆さん、悲劇のヒロインのドラマとか好きだったりするでしょ?
ミュンヒハウゼン症候群とは病気を殊更に重症であるように誇張し病院を受診し、マイナス思考に身を置くことで悲劇のヒロインに仕立て上げることです。人に哀れんで貰いたくて、あえて陰性感情になることを希望するというものです。これって健康的な心という意味ではかなりイケてないですよね。こういう部分が自分にあるのではないかと思う人は、是非、本当に大きな病気にかかる前にやめた方が良いと思います。病は気から、思考は現実化しますから。

 身口意

2500年前に既に仏教の開祖であるお釈迦さまは、三業相応や三密と言いまして、身口意、つまり先程説明した感情の表出法である身体の動きと言葉と焦点を制御すれば良い人生になると言っています。ということは言い換えると、感情を制御できれば良い人生になるとお釈迦さまは言っているのです。

この身口意ですがなぜこの3つかということを説明しましょう。
人間、五感を使って全ての入力を行っています。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、感覚を使っているということです。
この五感というのは、身口意の意である自分の状態、焦点に影響を受けます。
視覚というのは目で見るということですが、ありのままに見ているわけではありません。その時の状態で見方が変わります。赤いところを見てくださいと言われると、青いところや黄色いところは見えていませんし、見たくないものからは目をそらしますし、好きな異性はずっと見たいものです。
嗅覚もお腹が空いていたら美味しい臭いがより美味しそうに感じるなど、自分の状態、焦点に影響を受けます。
聴覚についても、聴く時の自分の気持ちや状態、つまり焦点によって聞こえ方が変わります。気分の良い時に悪口を言われてもそれほど腹が立たなかったりしますが、気分が悪いときには、ちょっとしたことで腹が立ったりします。
次に味覚ですが、同様に食べるものが美味しいか傷んでないかは自分の状態つまり身口意の意が影響します。気分が良い時は美味しく感じたりしますし、お腹が減り過ぎて食べ物が無い時は傷んでいても不味く思わないそうです。
最後に皮膚感覚、体性感覚は触覚や温度感覚、振動感覚や、固有受容感覚と言いまして手がどちらへ向いているかとか今どれくらいの力が入っているかの感覚などがあり、これも焦点、身口意の意で痛みの感覚などが変わったりします。
そして、出力としては、五感に対応するものとして身体の色や味や臭いは意識的に出力できません。声色を含む言葉と表情を含む身体の動きとして心の内容を出力できます。つまり、身口意の身と口です。
要するに、自分の入出力をコントロールすることで出来事の価値判断基準である感情をコントロールすることができるということなのです。

 感情のコントロール

我々の心の問題というのはほとんど全て、意識や記憶の問題ではなく感情の問題だということが分かりました。では、心を健康にするには、この感情をコントロールできれば良いということになります。しかし、一般的に感情をコントロールすると言うと、感情を表出するのを我慢することと思っている方が多いように思います。自分は嫌だけど嫌な顔をしないで大人な対応をするのが感情のコントロールだと一般的に言われます。
しかし、我慢しているのは陰性感情を陰性感情のままに置き去りにして、ストレスの原因となる感情を解放しないままに持ち続けていることになります。よくストレス発散にと環境を変えたり気分転換をすれば良いと言われますが、結局、その場に戻ればまた陰性感情がそのままになっているので、原因の解決になっていないと私は考えています。
結局、心を健康にするための感情のコントロールというのは我慢することではなく、ストレスといった陰性感情への執着を無くし自分で自由にその場で抱く感情をコントロールできることだと言えます。感情の執着からの解放が自由にできるようになることこそ、真の感情のコントロールだと言えます。

 感情の解放法(身)

では、感情を解放する方法はどうすれば良いかということですが、三業の身口意を逆に利用するということです。感情を抱くと身口意で反応しますが、逆に身口意を制御することによって感情を解放するということです。

初めに、身口意の身を利用した感情の解放法を説明しましょう。
まず、もう一度、陽性感情と陰性感情について考えてみましょう。陽性感情、プラスの感情には勇気、愛、好奇心、感謝などの気持ちがあります。陰性感情、マイナスの感情には恐怖、寂しさ、退屈、鬱などの気持ちがあります。しかし、よくよく考えてみて下さい。陽性感情を感じるときはだいたい身体が動いています。陰性感情を感じると身体は止まっています。動と静という組み合わせになっています。すごく勇気や愛や好奇心や感謝を感じている人で、じっとしている人はいませんよね。また、恐怖や寂しさや退屈や鬱を強く感じながら動き回っている人もあまりいませんね。先ほどFight or Flight反応と言いましたが、陰性感情を感じるとそれを解放しようと身体が動くように動物はできているのです。そして静止すると陰性感情がどんどん増幅してしまいます。
何かすることに恐怖心を抱いたとしても、実際にやっている時には恐怖心が無くなっているものです。やる前の静止状態の時に恐怖心はあります。正に、案ずるより産むが易しです。
実際にうつ状態になったお父さんに子どもが模型を作って欲しいとせがみ、そして仕方なくお父さんは作り始め、気付くとうつ状態が解消していたという有名な話もあるようです。
やることがいっぱいあるうちは感情が解放されやすいということですね。定年後にうつになる方もいるようですが、やることが無くなったり暇になり身体を動かさなくなるほど感情が解放されにくくなるということです。現代病の多くがストレスと関わると言われている理由もこの辺りにあるように私は考えています。
運動しましょうというと、肥満の予防や筋力が落ちる害を防ぐ意味合いでと思う方が多いですが、実は心の健康にも良いことがわかります。

このことから、身口意の身とはとにかく動くことが感情の解放につながることが分かります。そして、これをイメージと一緒に使う方法があります。陰性感情を感じている自分がいるとします。次に、そこに陰性感情を感じている自分を置いといて、そこから離れることをイメージして、身体を動かしながらその場を実際に離れます。身体をゆすったり、深呼吸をしたり、表情を変えたりしながらその場を離れるのです。そして、陰性感情を抱いていた自分の場所を見て、彼(彼女)がどうすればよいのか考えます。この陰性感情から実際に移動して離れた自分に陰性感情はもうありません。これはメタポジションや3rd.ポジションと呼ばれる神経言語プログラミング(NLP)という心理学の方法の一つで、感情の解放の一つの方法と言えます。

今、深呼吸と言いましたが、この呼吸というのも一つの身体の動きを使う方法です。何秒吐いて、何秒吸って、何秒止めて、また何秒吐いて、それが鼻から口からなどと、様々な呼吸法が紹介されていますが、何よりも言えることは特に陰性感情を持った時にその状況とは異なった呼吸をするということです。
呼吸法を概ねまとめますと、呼吸器の死腔(吐ききっても体の中に残る空気)をできるだけ外気で満たすということを考えると、鼻腔を外気で満たすとなると鼻から吸って口から吐く呼吸が良いように思います。呼吸器をできるだけ多くの外気(酸素)で満たすと考えますと最後まで口から吐ききるのがまず重要で、その後鼻からゆっくり大きく吸って、ゆったりした呼吸をするためにそこで一度呼吸を少し止めて、またゆっくり最後まで口から吐ききるというのがポイントかなと思っています。

 感情の解放法(口)

次に身口意の口、つまり言葉を使った感情のコントロール法を説明したいと思います。

まず、最初に陰性感情を表す言葉を使わないということです。腹が立ったりすると、どうしても文句、愚痴の一つも言いたくなります。しかし、言ったところで何か解決するのでしょうか。結局、自分の感情に執着し開放できなくなってしまいます。まして、病気の時に痛い、しんどい、疲れた、調子が悪いなどと言ったところで、気分が更に悪くなっても症状が良くなることはありません。あえて言う必要はないのです。しかし、問題が生じたとき、男性は黙って解決しようとする傾向があるらしいですが、女性は人に話すことによって気持ちを解決しようとする傾向があるようです。車で道に迷った時などにこれが原因で男女の行き違いが生じると言われています。男性は黙って地図を見て考えるのですが、女性は男性に迷ったなら誰かに聞いたらとか、人に話すことによって不安な気持ちを解消しようとします。そして、これが男性には過干渉に感じて怒り出します。女性は折角アドバイスしているのに逆切れされたと怒り出し、喧嘩になるというわけです。このマイナスの感情を解放するために言葉にあえて表さないというのは、もしかすると女性には不向きな方法かもしれません。何せ私は男性なもので。でも、外来でみていますと不定愁訴の女性の多くは本当にマイナスの言葉を発し続けているので、やはり女性でもマイナスの感情を人に言って発散したいのは分かりますが、あえて陰性感情を表す言葉を使う必要はないかと思っています。

もう一つの方法は、仮に陰性感情を抱いてしまった時に瞬時に「〜と、昔は思ったものだ。」と、言葉に出してでも、心の中で言っても良いので、そう思うようにします。陰性感情を抱くことは自分の心の健康に良くないということが分かると、逆に陰性感情抱いてしまった時良くないことをやってしまったと更に落ち込む方がおられるようです。しかし、これもまた陰性感情を抱くことになってしまうので二重にイケてません。誰しも逆境に身を置くこともありますので、陰性感情を抱いてしまうこともあります。しかし、それ以後にその感情に執着しなくするにはこれは良い方法です。これで、即、感情が解放されます。他に「折角、〜」を付けるのも良くない状況を前向きに捉えるのに良いようです。失敗して腹が立っても「折角、失敗したんだから…」と思うと陰性感情に捕われなくて済みます。

もう一つ紹介しますと、これはハワイの秘法と言われているホ・オポノポノという方法を私が意訳したものですが、呪文のように暇があると「ごめんなさい」「すみません」「おかげさまで」「ありがとう」と唱えるというものです。これは英語ではI’m sorry. Please forgive me. Thank you. I love you.の4つなのですが、このように訳させて頂きました。
「ごめんなさい」というのはI’m sorry.かPlease forgive me.のどちらかだと思いますが、通常前者ですが、御免という意味では許して下さいという後者の意味に近いと思いました。要するに自分は人間工学的にも間違う存在なのですから許してもらうということです。
「すみません」もI’m sorry.かPlease forgive me.のどちらかですが、まあ前者かなと。これは間違ったから謝るのではなくて、自分を育んでくれたこの世界に恩返しができていない、済んでいませんという意味から来ているそうで、I’m sorryよりも良いのではと思いました。
「おかげさまで」というのはI love you.をそう意訳させて頂いたのですが、「すみません」と同様、自分は一人でこの世に存在できたわけではなく、今生きていること自体、この世が育んでくれたお陰で存在できているという意味で最適だと思いました。
「ありがとう」というのは、いま自分がここに生きていること自体が素晴らしいというここに有り難しから来ているということで、これはThank you.よりも素晴らしい言葉の意味があると思います。
何に対して?とか細かいことは抜きにとりあえず言うと実際感情が解放されて行きます。特に陰性感情を感じている時にやると有効性が高いように感じています。何に対して?と思ったときはその迷いの陰性感情に対して更にやってみて下さい。外界の出来事のせいにせず、自分の責任だと主体性を持ってやることもポイントです。
これを広めているヒューレン博士は、患者に会うこと無くこれだけで触法精神病患者を病棟ごと治癒させたそうです。

 感情の解放法(意)

では、身口意の意を使った感情の解放法を説明しましょう。
身口意の意の部分である実在意識の焦点を変えるというのは、まず、今自分がどういう感情を抱いているかを感じる癖をつける必要があります。全ての感情のコントロールはここから始まるとも言えると思います。自分が今どういう気持ちか、どういった感情を持っているかを客観的に感じるようにしておかないと、流されるだけです。

それではまず焦点を変える方法の一つとしては、感情の予定を立てるという方法があります。これから仕事へ行くとすると、仕事へどういう感情を得るために行くのか前もって決めておくのです。やり甲斐ある仕事に満足しに行くと決めておくと、やり甲斐に満足するために仕事をしているという焦点になります。すると、少々腹が立つ出来事が起こってもそれにやり甲斐を感じて満足するために仕事をしているんだと思え、マイナスの感情を抱くのを防げます。

もう一つの方法としてはマイナスの感情を抱いたら、自分にする質問を決めておくということです。実在意識は一つのことしかできず、論理的思考ができると言いましたが、私たちが使っているのはほとんどが無意識、潜在意識で、質問を遮ったり否定したりすることを潜在意識はできません。だから、質問をすると潜在意識は答えないことができないのです。やってみましょう。今から言う質問の答えを考えないで下さいね。好きな色は何色ですか?どうです?好きな色を考えてしまったでしょ。実在意識で答えないことは出来ても、無意識に想像してしまうものなのです。

ということで、自分へのプラスになれる質問を持っておくということです。この状況で良いことは何か?など、自分の質問を持っておくことです。ダイレクトに今抱いている感情は何か?と質問した後に、その感情を解放すると決める方法、今のこの問題、ストレスが引き起こす最悪な状況は何かと質問した後に、その状況を受け入れて改善するように考える方法、今の陰性感情を持つに至った出来事に何故自分が陰性感情と連想するようになったのかと質問する方法など。身口意の意を用いる方法もいろいろなものがあります。

 心のKIS原則

以上、身口意を使った感情の解放法を紹介しましたが、心理療法や精神療法、感情のコントロールと言われているもののほとんどが、そういう見方で見てみると、感情を解放する、感情に執着しないようにする方法なだけなんですよね。人間は多様性があるので、自分に合った感情の解放法を見つけて頂ければ良いと思います。私が知る範囲でもまだまだ多くの方法があるので、興味のある方は調べてみて下さい。
ここで感情を解放するというと、感情を抱かない無味乾燥な人間になることと思われる方もおられるかと思いますが、そうではありません。お金でもどうでも良いことに遣い続けると、いざ重要なものを買おうとした時にお金が足りなくなります。感情も同様で、どうでも良いことに感情を使いすぎると、いざ大きな感動、感銘を得られる出来事が迫ってきても、どうでも良い感情に執着して感情を浪費してしまい、それを受け止めることができなくなってしまいます。感情を解放するとはある意味、普段の無駄な感情を倹約することとも言えるかと思います。
ちなみに2500年前の枢軸時代からある仏教や儒教の教えの中にも感情の解放法は多くあります。江戸時代に近江聖人と言われた中江藤樹先生という方が五事を正すということをおっしゃっています。この方は陽明学者と言われていますので、儒教の流れを汲む方だと思います。この五事を正すとは人格を養うという意味かもしれませんが、心を健康にする方法だとも考えられます。ある意味、心を健康にするとは人格者になる方法と言えるかもしれません。その五事とは貌・言・視・聴・思のことで、貌とは表情、身体の動きのことですね。言とは言葉の使い方のことですよね、視・聴・思とはものの見かた、ものの聞き方、ものの考え方のことで焦点と言えるかもしれません。要するにお釈迦さまと同じ身口意のことですね。
貌というのが出てきましたが、この表情というのも感情を開放するのに有効ですね。笑うように、笑顔を作るようにするだけで感情が解放されやすくなります。身口意の身を使った感情の解放法の一つですね。このように、多くの感情の解放法が宗教、心理学、精神療法などの中には溢れています。
多々ある精神疾患と言われるもののほとんどは結局のところ感情を解放できていなかったり、記憶できるものは感情を伴った出来事と繰り返される出来事だと言いましたが、その記憶と感情の連想、自動思考に問題があるだけだという気がします。過去、現在の出来事には全く意味はありません。結局心の健康は意識や記憶の問題ではなく感情の問題だと言えると私は思っています。

ここでも、気付いて頂きたいのは、私は心のメカニズムを昔から言われている知情意で分類しただけで、一切脳科学などに依存していないということです。要素還元主義や統計学的結果を一切使わずに単純に考えてみているだけです。右脳も左脳も右往左往なんて私にとってはどうでも良い知識だと思っています。研究者の方には必要かもしれませんが、心の健康には全く関係ありません。

 ストックデールの逆説

では話を戻しまして、次に感情を解放し前向きに積極的にプラス思考に楽観主義になれば、心は健康になれるのでしょうか。
ストックデールの逆説という話があります。このジェームス・ストックデール将軍とは、ベトナム戦争時アメリカの軍人で捕虜収容所にいて何度も拷問を受けたりしたけれど生き残った方です。で、この方が捕虜になっていた体験で、耐えられずに死んでいった人はどういう人かと尋ねられて、「それは簡単だ。楽観主義者だ。」と答えておられます。もちろん、このストックデール将軍も最後は出られるだけではなく、勝利を収めてあれほど貴重な体験はなかったと言えるようにすると前向きに考えておられたのですが、生き残れなかった楽観主義者は次のクリスマスには出られる、感謝祭までには出られると楽観的なことを言い続けているけれども結果的に出られなかった時に落ち込んでしまうということです。要するに現実を直視せず逆境を無視して感情を解放しようとしても、次々に迫ってくる逆境に感情のコントロールを失ってしまうということです。

ここで重要になるのは自分の主体性を失わないということだと思います。あくまでも環境が好転するだろうという他力本願的な楽観主義ではなく、自分の実在意識の焦点をしっかりコントロールし、自分はどういう人間でどうしていくのかということを自分で決めて、しっかりと感情を解放して行くということです。
他人にコントロールされた良い環境は楽でお得で良いかもしれませんが、どんな環境でも自分の思い通りにならない環境には不満が出るもので、感情の解放は困難になります。逆に、主体性のある自立した環境は生きて行く上では逆境が多いかもしれませんが、それを主体性を持って対応できるため、感情の解放は容易であると言えます。私はこういった理由で厚い福利厚生は人の心を不健康にするものだと考えています。実際に疾病利得と言って、病気になることでお金がもらえたり、病気になることによって利益になる状況にある人は、その人が望もうと望むまいと病気が治りにくくなることが知られています。
また別の言い方をしますと、主体性を失わないということは、一つしか考えられない実在意識、顕在意識の意識する方向性、焦点を自分で決めてしまうということです。実在意識の焦点を決めておかないと周りからの様々な情報により焦点がブレることになります。千日回峰行の酒井雄哉大阿闍梨もやることが決まっている不自由な修行中はとても幸せだったとおっしゃっています。選択肢が多く、他人や環境からいろいろな情報が与えられ、自由に選択できる現代社会ですが、自分で考える幅を減らさないと逆に主体性を失いやすく不幸になるのかもしれません。

では、どうすれば主体性のある人生が歩めるのでしょうか?漫然と豊かな我が国で暮らしていると、自分から主体性を持とうとしなければ全てレールが敷かれています。生まれたら幼稚園や保育園から集団生活に入り、学校を卒業したら会社に入り、帰宅してもみんなと同じ遊びをし、テレビを見、ネットサーフィンをし、みんなと同じような情報を得て、休みもみんなとだいたい同じところへ遊びに行き、老後は年金や老人介護施設にお世話になりと、主体性がなかなか保てません。その中で待遇が悪い、補償がない、環境が悪いと他人に改善を求め陰性感情を抱き、病気になったら病院で手厚い治療が国民皆保険で安く受けられなければならない、より厚い福利厚生をと、自分の健康すら他人任せになってしまう状況です。これでは主体性が失われ、感情の解放が追いつかず、心がどんどん不健康になり、治るものも治らなくなってしまいます。

 アイデンティティを持つ

そこで主体性を持つためにまず重要なのは、アイデンティティを持つということです。今のあなたは実は本当のあなたではないのです。あなたにはもっとこうなりたいという自分がありませんか。もっとこうだったら良いのにと思っていませんか。そのなりたい自分こそ本当の自分なのです。その本当の自分の姿を偽っていても、結局、本当の自分ではないので感情の解放は困難になります。
もちろん、現状を無視して変えられない天命を否定するのはダメです。親が貧乏なのに私は金持ちの御曹司であるとか思っても、親は変えられません。自分のなりたい自分を妥協することなく主体性を持って決めるということです。
そして、本当の自分になるために今の自分に不足しているものを挙げる前に、そういう自分に心は先になってしまうんです。例えば自分は死ぬまで絶対に強い人間であると決めるんです。すると、多少健康に不具合が生じても、自分は強い人間なので、これは十分に克服することができるし、これは更に健康な自分になるための訓練だという気持ちになれます。周りがどんなにあなたはそんな人間じゃない、お前は〇〇だと言われたとしても、自分でアイデンティティを決めておくとぶれなくなります。これも昔から言われていることですが、するよりもなることが重要だということです。良いことをするのは悪人でもできますが、良い人になることは悪人にはできません。先になりたい人間になることが重要だと、2500年前の孔子や釈迦の時代から言われています。

 志を持つ

そして、主体性を持つのに一番重要なのは志を持つということです。横文字でミッションとか言われているものです。
志を持たないと、人間誰しも現状が気になります。今、自分は楽しいとか不幸だとか、環境が良いとか悪いとか。現状を無視して感情を解放するのも良くないですが、現状に流されてその時の感情に縛られるのも良くありません。となると、自分が将来へ向けて行動する明確な志が必要となります。
内因性精神病というものに、うつ病と統合失調症(精神分裂病)がありますが、これなども結局、今の自分のマイナス面が気になり過ぎるとうつ病になり、今の周りの環境のマイナス面が気になり過ぎると統合失調症になると言えます。明確な生きる指針、志を持たないとそういった状態になりやすいとも考えられます。
将来像を持つという意味で夢や目標やゴールなどとも言われていますが、その中でも志、ミッションというのはどういうものであるべきか私が重要だと思っているのは、自分が死んだ後にもこうなって欲しいと思うようなものが志であるべきだということです。これを志は命よりも重いなどと表現される方もおられます。
大きなプール付きの家に住みたいとか、多くの知識を得たいとか、良い会社に入りたいとか、資格を取りたいとか、笑って死にたいとか、そういった目標、ゴール設定、ミッションではなかなか主体性を維持するほどの志にはなりません。死んでもそうなって欲しいということは、その志への行動はあなたが死んだ後も永続する行動になります。誰かが意志を引き継ごうとするくらいのものが望ましいと思います。
そうでないと、感情の解放が困難な逆境、例えば重病を患ったときなど、どうしても病気のことばかりを考えていくら感情を解放しようとしても感情の解放が困難になります。こういった時にでも、自分はこの志のために生きているので、こんな病気のことをかまっている暇はないと思えるほどのものでなければなりません。大きなプール付きの家に住むという志を持っていても、大病すれば「ああ、生きている間に叶わなかった」と更に陰性感情に飲み込まれてしまいます。
世界は進化発展し続けているわけですから、世界の流れに逆らわず世界の進化発展に貢献するような志が望ましいと思います。人類の進化発展のために障害になるような歪みを見つけたらそれを直すこととしても良いでしょうし、自分が得意なことで人類の進化発展に貢献できることがあるのなら、それも志として良いと思います。
逆に、志というのは生きている間に容易に解決できないものの方が良いのではないかと私は思っています。できれば、自分の得意とするもので人類、世界の永続的進化発展に貢献する、生きている間に達成できないような志を持てたら幸せだと思います。
また、こういった志というのは一つしか持てないものですし、複数あってもブレるだけで感情をうまく制御し難くなってしまいます。人間の実在意識は一つのことしか考えられませんし、欲張らずいくらあなたが天才だとしても、とりあえず一つ志を持つことが重要だと思います。

ここで、志を持つというのは一般の目標設定とは異なり、死んでもやりたいことと言いました。一般的な目標設定、ゴール設定は短期的な夢を持ち、その日の行動目標に落としこむのが良いと言われたりもします。しかし、これは人によって向き不向きがあるようです。私には恐らく向いていません。
これは、人間、価値観で行動するタイプと計画して行動するタイプがあるようです。人間を根拠もなく分類するのはKIS原則好きの私はあまり好みませんが、しかし、これは確かにあるように感じています。
価値観を重要視するタイプと、計画性を重要視するタイプ。トレーニングにしても、旅行にしても、勉強にしても、何かをする時、その時良いと思うことをとりあえずやる価値観重視型と、いついつまでにこれをやると計画してから行動する計画性重視型。旅行へ行く時に自分がどうするかですぐに分かりますよね。私なんてだいたいどこへ行くのかと出発日と帰宅日を決めて、後はその場で楽しいこと見つければ良いって感じですから。こういうのが許せない計画性重視タイプの方もおられるでしょう。
ワタミの創業者の渡邉美樹さんは「夢に日付を」ということで、夢を短期目標にまで落としこみ、計画どおり実行されてこられたタイプですが、逆に、京セラ、KDDIの創業者の稲盛和夫さんは目標を設定したことがないとおっしゃっていますので、価値観で行動するタイプだったんだと思います。
このように、計画的に目標設定すると面倒臭くなり裏切りたくなる私のような価値観型の人間には志なんていらないと思われるかともしれません。しかし、生きている間の目標、ゴール設定とは異なり、志というのは死んでもこうなって欲しいということですから、別に価値観で行動するタイプでも価値観の根本となるわけです。また、志がないと感情の解放がうまくできません。ですから、心の健康のためにも価値観型の人に志がいらないということでも無いと思います。毎日の行動計画が無いと不安で何をやったら良いか分からないという計画性型の人は、志へ向けて、いついつまでにこれをするとか、分割して短期目標を設定して行けば良いと思います。

 一燈照隅、萬燈照國

天台宗の開祖である最澄 は「一隅を照らす」と言っています。また、昭和の碩学・安岡正篤さんも「一燈照隅、萬燈照國」と仰られています。自分が死んだ後もこうなって欲しいという志を持つと言われると難しく考える方がおられますが、別に立派な大人に子どもを育てるとかそういうものでも立派な志です。社会に貢献するような事業、会社に参加することも、十分良い志です。国を照らすような大きなことでなくても、一隅を照らすようなことで良いのです。私心、私利私欲からの良い待遇の会社へ入って良い給料をもらうというのは志としていけてないですが、同じ会社に入るのでも考え方次第ってことですね。
しかし、自分の志なんて分からないという方も多いと思います。これは、もう探すしかありません。好きなこと、やりたいことをいっぱいやって書き出して、その中から自分を見つけるしかありません。とりあえず、何でも良いので決めてしまうというのも良いと思います。別に死ぬまで変えてはいけないなんてルールも無いですし、違和感を感じてきたらその時に別の志に変えれば良いのですから。私も数回既に微妙に変えてきています。そして、自分の志は今はこれと決めておけば、逆境がいくら迫ってきても、自分は志のために生きていると思えば感情の解放も容易です。

志の重要性として、昔から志のある人はボケないとも言われています。世界、人類の進化発展のために貢献し続けようという人は頭が衰えないようです。実際、そういった過去の偉人の伝記などで最後はボケましたというのは聞いたことがありませんよね。
ボケ防止に脳トレなどと、くだらないゲームやお遊戯のようなことを高齢者にさせる脳科学者などがいますが、私は大人になったら何も子どものようにゲームで社会の仮想体験をする必要もなく、現実社会で活動すれば一番頭に刺激的だと思います。社会人を卒業したら、更に世界に目を向ける位の志を持たないと、社会人以下の活動しかしなければ頭が退化しボケるのは当然でしょう。
認知症が不安な高齢者なほど、「私はもう十分生きたから、あとは人の迷惑にだけはなりたくない」などと言いながら志を持とうとしない方が多いような気がします。認知症になって人に迷惑をかけるのが不安な方こそ、志を持つことをお勧めします。

この、アイデンティティと志はできるだけ頻繁に意識しイメージした方が良いようです。常にそれを意識することで感情の解放も安定してできる自分になれますから、頻繁に確認して潜在記憶にまで刷り込み、潜在意識が無意識に行動できるくらいにすることが重要です。特に寝る前は実在意識が無くなって完全に潜在意識に移行する期間ですから、その時に強くイメージすると潜在意識から潜在記憶に記憶され易いようです。寝る前にアイデンティティと志を意識するようにしましょう。

心の病気は現代病とも言われ、国が近代化すると心の病気も増える傾向にあるようです。未開の時代の人類は、とりあえず生き抜くということに集中するしかなかったので、あえて志などと考えなくても感情の動揺なく生きて行けたのかもしれません。ある意味、感情の動揺があるだけ我々は選択肢が多く自由であり幸せだとも思えます。自由であるが故に自分の志を失い、心の健康を害する人が増えているのかもしれません。そういった現代社会だけに、あえて選択肢を自分の志に絞り、自分の心を不自由にして感情を動揺させないことが、健康に幸せに生きるために現代人には求められるのかもしれません。

よく、目標設定ということで志を毎日の予定に落としこむことが勧められたりもしていますが、これに関しては私はどちらでも良いかと思っています。そういうのが好きな人はそうすれば良いと思いますし、私のように予定を立てる方が焦りを生じたりやる気が出なかったりするタイプは敢えて日々の予定に落としこむ必要が無いと思っています。これは、偉人賢人の中でも両意見があるように思うのでその辺りはあなたがやりやすい、心を落ち着かせやすい方で良いと思います。

 永遠の命

感情を解放できていて。アイデンティティを確立し、志を持っている人が心の健康な人と考えると、心が健康な人は人格者であるとも考えられませんか。また逆に志を持たず、現在の環境や出来事に一喜一憂して感情に流されている人は、心の狭い人、小さい人間だと思えませんか。そして、こういった人格者、偉人たちは死んだ後も人びとに影響を与え続けていますが、それだけではなく実際の寿命も長いようです。
仏教の開祖のお釈迦さまの寿命は80歳ですし、儒教を作った孔子の寿命は71歳、ソクラテスは毒殺されたのに70歳、禅宗や少林寺拳法の開祖である達磨さんなんて150歳まで生きたと言われているようです。2500年から2000年前の人ですよ。無茶苦茶ご長寿ですよね。イエス・キリストは32歳と珍しく短命なのですが、まあ殺されているということで。しかも後に復活したとも言われていますから。
また、こういった偉人たちは死んでも多くの人に影響を与え続けているということは、永遠の命を得たとも言えます。人類の進化発展に貢献するような生き方をした偉人でも、生きている間は誰か何かのお陰を受けながら生きて行かなければなりません。しかし、あなたがその一つの志に生きると、何のお陰も受けずにあなたの肉体が亡んだ後も尚、あなたの志は生き続けることになります。これこそ正に永遠の命と言えると思いませんか。死にたくない人は偉人を目指すしかないですね。

心の健康のために感情を解放することやアイデンティティを確立し志を立てることが良いということから分かることは、元気である、素直である、誠実である、徳があるといったことが心の健康の根幹であり、知識、技能、財産、地位を求めるなんてことは心の健康にとってあまり意味の無い枝葉末節だということが分かります。また、枝葉末節にこだわると、かえって感情が解放できません。知識を増やす、技能を身に付ける、財産を増やす、地位を高めることを望んでも、心は健康になれないということです。健康情報に踊らされて知識偏重となり、感情のコントロールを失う方が不健康な思考になって行くことが分かると思います。

 私の死生観

では、ここからは心を語る上で避けては通れない人生観、哲学、宗教観の話をしてみたいと思います。これはあくまでも私の考えであり、皆さんは自分の思う宗教や哲学をベースに考えて頂けば良いと思います。ただ、病気になると藁をも縋る気持ちで、妙な宗教や占い、スピリチュアル系などに高額な費用をかける方もおられるようですので、一応参考までにお話したいと思います。

まず、死生観について私の思うところをお話したいと思います。医療者が死を見つめていないという批判も多々ありますので、あえて述べさせて頂きます。
多くの方もそうだと思いますが、私もつい最近まで死の恐怖を克服できていませんでした。死んだらどうなるんだろう?自分の存在はどうなるんだろう?などと考えると怖くなりました。何かとそれが気になって、生きるという意味も分かりませんでした。
小学生の頃、姉に聞くと、どうせ分からないから後で考えると言われたのを覚えています。その後も死の恐怖を克服する方法をいろいろ考えましたが、なかなか解決法が見つかりませんでした。結局、今から考えますと、何度も克服する答えを聞いていたのですが、自分での中で落とし込めていませんでした。

では、死についてですが、誰もが生まれた時から加齢し、死ぬという天命を持っています。これは避けられない運命です。よく大病して余命何ヶ月と言われた方を可哀想と思っている方がいますが、別にそれより先にあなたが死ぬことだって十分あり得ることで、誰もが死ぬのは避けられないし、常に死ぬ可能性があります。
臨死体験と言いまして、一度死んだ状態から生還された方がどのような体験をしたという話があります。お花畑が見えたとか、川があって渡ろうとしたけど帰って来いという声がして帰ってきたとか。しかし、臨死体験っていうのは死にそうになられた方の体験談であって、死んだ体験ではありませんよね。死ぬということは生の反対の状態であり、生還不能なものを死と呼ぶわけですから。
簡単に、生の反対が死であるということです。だから、生きている人がどれだけ死んだらこうなると言っても、生きている間に死は分かり得ないということです。どんなに霊媒師やイタコが死んだらどうのこうのと言っても、生きている人が話す以上、私はその人の思い込みとしか思えません。生きている間は死ねないとも言えます。要するに、自分が生きている間に自分が死ぬのを絶対に分からないということです。
そして、死の恐怖という話をしますと、まず、死に恐怖心を抱いているということは、生きているのが当たり前、生きているのが当然と思っているから死に恐怖を感じているのではないでしょうか。生きているのが当然で永続性があるように思うから、死ぬのが怖いと思うわけですよね。でも、よくよく考えてみたらあなたは生まれる前にいましたか?まず、自我ができる3、4歳以前の記憶すらほとんどの人には無いわけです。そして、生まれて自分の存在感を実在意識として感じているわけですが、それは当然なんですか?自分が何故ここに生まれたのか分かりますか?自分の存在は確実ですか?たとえ、死ななくても明日あなたがまた存在感をこの世で感じることができているという補償はありますか?この世はもしかしたらマトリックスの世界で、明日違う世界へ引き戻されるかもしれませんし、それが絶対にありえないとは言えないですよね。何故、今ここに生きているのかすら誰も知らないのですから。
と考えると、今感じている存在感、自我というのをこの世で持てていること自体がとてもラッキーなことだと思いませんか?何の努力もなしに、何もしていないのに、気付いたら生まれて自我を持って生きることができているんですよ。別にあなたが生まれなければならないわけでもなかったのに、別にあなたが今いなくても良いのに、生まれる前の状態で無のままでも良かったのに、幸運にもこの世に生まれて、ここに存在を感じることができているんですよ。
しかも、これを読める日本語が得意な日本人となると、世界でも有数の恵まれた水と安全が無料で享受でき、世界でも有数の教育水準で周りのみんなが計算ができ同じ言葉を読み書き話せ、平均寿命が世界一で、世界有数の栄養と衛生面を併せ持ち、世界最先端のテクノロジーの恩恵を受けることができる国に、何の努力もなく生まれ出たということです。こう考えると我々って身口意の意という意味で究極の感情の解放が可能な民族だと思えます。落ち込む要素ゼロです。死ぬのが怖いとか言う前に、生きていることが有り難くて仕方がないですよね。と考えると、死ぬってのは元々いなかった状態に帰するだけで、今生きていることの方が幸運で有り難い話だと思いませんか。しかもこんな幸運な状態に生まれて。
なぜ自分は生まれて来たのだろう、何をするためにこの世に生を受けたのだろうなどと考える人は多いと思いますが、そういった疑問の答えは無いと思います。生きているのが当然だと思うからこそ出てくる疑問で、何故も何をするためでもなく、生きているだけでここに有り難いってことです。志は自分の好きに決めれば良いだけです。明石家さんまさんが「人生、生きているだけで丸儲け」とおっしゃっていますが、まさにそれこそが死の恐怖を克服する方法だと思います。別に病気でしんどくて今死にそうでも、今、生きているだけで有り難いと思えませんか。もともといないんだから、別に今いなくても構わないのに。そういう気持ちになるところに死への恐怖なんて関係ないですよね。死ぬのが怖いとか怖くないとかいう問題ではなくて、生きていることが有り難いということが分かれば良いと私は思いました。死に陰性感情を感じるのは生に陽性感情、感謝の気持ちを持つのと同じことと言えると思います。
そう思えるようになってからは、私は特に死について考える必要性を感じなくなりました。そんなことよりも、折角、生きているんだから、生きている今の瞬間を大切にした方が良いと思うようになりました。一日一生、一期一会っていうのはこういうことなんだなと実感している今日この頃です。

 私の現実感

では、あの世や転生輪廻、つまり生まれ変わりについてですが、私は基本的に無いと思っています。自分で体験したことも感覚したこともありませんから。もちろん、体験したり感覚したことがあるという方は、あの世もあるし生まれ変わると思って頂いて構いません。あくまでも私の意見です。
臨死体験者が体験するあの世ですが、先程も述べたように臨死体験者は死んだ人が生還したのではなく、死にかけただけで死んではいないんですよね。確かに死にそうになるとそういった素敵な天国のような世界や嫌な地獄の世界を見るのかもしれませんが、死んだらどうなるかは別問題だと思っています。
単純に考えると、この世や周りの人々に作られた自分の自我、存在感ですから、その自分の情報がこの世から消滅すれば、自我、存在感も消滅する、生まれる前の状態に戻ると考えるのが普通だと思います。

また、転生輪廻についても人口が増え続けている現代で、昔の人が転生輪廻していたら人口が合わなくなりますし、じゃあ、他の動物や無生物まで生まれ変わるとか考えると、高度な実在意識を持つ人間じゃ無かった頃に記憶なんてあるわけないですし、話が合いません。
また、退行催眠と言って、生まれる前まで催眠術で行ってもらうという方法がありますが、それも前世療法や前世占いというので退行催眠をかける前に摺り込んでおくと、その通りに退行催眠するらしいので、ある意味暗示にかかっているだけとも言えます。
また、最近2、3歳の言葉を覚えだした子どもに胎内記憶、出生記憶を聞くと答えるという話がありますが、その子どもが前世についてどうのこうのと言ったというのは聞いたことがありませんから、やはり、ある程度成長してからの思い込み、暗示で前世を作り出していると思います。

比叡山延暦寺の千日回峰行という荒行を2回も40歳を超えてから成し遂げた酒井雄哉大阿闍梨という私の尊敬しているお坊さんがおられるのですが、その方の本の中に転生輪廻の話が出てきます。転生輪廻がある理由は、全てのものは諸行無常で変化し続けており、しかも、グルグルと循環しているというこの世の法則があります。
このお坊さんは「一日一生」とよくおっしゃっており、その意味は、一日の起きてから寝るまでを一生の生まれてから死ぬまでのつもりで生きるということで、先程の今生きているのが有り難いという気持ちで生きるということだと思います。そして、一日は朝起きて夜寝て、また次の日も朝起きて夜寝るというサイクルを繰り返していますし、1年の中にも四季が巡ってきます。人生というのはこのように毎日が違いますがこういったサイクルがあります。だから、長い人生というのもまた生まれ変わるという循環をしているだろうということです。
しかし、そう言われてもなかなか転生輪廻の存在に納得のいかなかった私は、なんとご本人に質問させて頂きました。すると、どう答えられたと思います?私は流石大阿闍梨だと思いました。何だと思いますか?
答えは、転生輪廻があったら面白いだろ、ということです。そのお坊さんが修行で常行三昧という90日間お堂の中をほぼ不眠不休でお経を唱えながら歩き続けるというのをされている時に、数珠を擦るような音がお堂の中から聞こえてきたそうです。ご自分も数珠を擦りながら修行されている最中なので、他の人がいるのかと思ったそうです。しかし、よく見ると虫だったそうです。虫が鳴くのに羽を擦り合わせる音が数珠を擦る音に聞こえたそうです。しかしある時、音がしなくなり気付くと下に落ちて死んでいたそうです。それを見て阿闍梨さんは、きっと昔に同じこの行をやり遂げることができなかった僧が生まれ変わって、虫になってもう一度修行をやり遂げに来たんだろうなと思ったそうです。そう考えると面白く、納得できたそうです。だから、転生輪廻があると思ったほうが面白いだろ、ということでした。
確かに、死んだ親戚がどこかで生まれ変わっているとか、あの世で見てくれているとか思った方が遺族が納得できるし楽しくなるということでしょうか。本当にあるかどうかなんて、どうでも良いということです。
同様に、天国と地獄というのも悪いことしたら地獄に堕ちるよ、良いことしたら天国へ行けるよと行動を戒めるためのことで、本当に有るか無いかという問題ではないんだろうと思います。
ファンタジーの物語に感動するようなもんですね。人間は合理性一本槍では面白くないので、そういう部分も必要ってことでしょう。
まあ、あの世があろうと無かろうと転生輪廻があろうと無かろうと、今の人生は二度ない、今は今しか無いということに違いはありませんから、自分が今どう良い人生を生きられるようにするのかということが重要だということですね。

 私にとっての神仏感

では、次に神や仏という話をしてみたいと思います。何度も言いますが、私がそう思うだけで、この辺りの話も別にどう考えようとあなたの自由なので、納得できるように考えて頂ければ結構です。
では、神仏とは何かという話からしたいと思います。神仏が何か分からないのにあなたは神や仏を信じますか?と言われても胡散臭く感じるだけで、答えようが無いですよね。では、神仏とは何かという話をしようと思います。

よく神や仏と言うと、そういう意識体、知的生命体の存在と思っている方が多いと思います。神話や昔話で出てくる神や仏はだいたいそうですよね。人間と同じような姿をしています。ちょっと羽が生えたり輪っかが付いたり後光が射したりしているだけで。まあ、姿はともかく科学者の中でも進化論や宇宙論でIntelligent design説、知的設計説と言いまして、どこかの知的存在がこの世や生物を作ったという理論を言う人がいます。キリスト教の聖書の影響でしょうか。
しかし、私は経験上そういう意識体や知的存在を感じたことも見たこともないのでどうも信じられません。もちろんカルト宗教の教祖のように自分が神仏の生まれ変わりなどと妄想している人の話なんて更に全く信じません。

また、神仏という大いなるもの、something greatの存在を感じるという話もあります。これは自分の存在もこの世に育まれたものと私は感じていますし、そういったこの世そのもの、大自然、天地を大いなる存在である神仏と表現する場合もあります。こういった意味での神仏なら私は存在すると感じています。

おそらく前者を一神教、後者を多神教と呼んでいると思うのですが、そういった意味で私は多神教と言えるのかもしれません。もちろん多神教と言っても、八百万の神という多くの知的存在がいるという意味だとまた考えが違いますが。
この世、大自然、天地という神仏があり、自分もその神仏の一部分であり、自分の中にも神仏が存在し、無から生じた自分という存在自体も無から生じたこの世と同じく大いなるものと言えると思います。一神教はどうも私にはそぐわないんですよね。でも、別に私は、一神教であるキリスト教やイスラム教を信じている方に多神教になれと言っているわけではないですから。そういった存在の有無を超えた偉大なる絶対的一神がいることで安心できるなら、それで良いと思います。何を考えるかは個人の自由ですし、思想も宗教も自由です。ただ、心が健康でいられるのならどちらでも良いと思います。

大病をして神頼みする人もおられると思いますが、大いなる存在の一部分である自分をもう少し信じてコントロールするようにしてみてはと私は思います。私は自分の主体性は神でなく自分にあると思っています。もちろん、神に守られていると思うほうが安心できる方はそれで良いと思います。

剣豪、宮本武蔵は言っています。「神仏は貴し、神仏を頼まず。」
神仏はただ尊いだけで、頼みごとをするものでもお金を払うものでもありませんよね。

 宗教について

宗教にそれほど詳しいわけではありませんが、聖書(バイブル)をキリストは書いてませんし、キリスト教もキリストが作っていませんよね。仏教もお釈迦さんはお経を書いてませんし、仏教も作っていません。儒教も孔子は論語を書いていませんし、儒教も作ろうとはしていません。教えられた弟子のやったことですよね。
そして、お釈迦さんについては、真理を悟ったと言われていますが、その真理は何かを説いていないそうです。いろいろな真理が多くに弟子に語られているのです。では、真理を悟っていないのかと言いますとそうではないのです。お釈迦さんの説法は対機説法と言われています。つまり、相手に合わせて話をされているのです。
やはり、そういう偉人達ですから、小人の私が言っている超健康道のように、「私はこう思う」と言うのではなく、相手に合わせて神仏という意識体がいると信じている人には神仏はこう言ったとか、こういうあの世がありますとか、相手の世界観に合わせて相手が良い行動、より健康な心と身体を作るように導いたのだと思います。
仏教における修行や精進料理にしても、より健康な心と身体を作る方法をやっているだけで、別に弟子に辛い思いをさせようと思ってやったものでは無いように思います。
そんな気がしている私には、本当は釈迦もキリストも大宗教の教祖たちは神や仏がいようがいまいがどちらでも良いと思っていたのではないかと思っています。ただ、相手の、弟子の世界観に合わせて真理を説いたのではないかと思っています。
これはあくまでも言論の自由を利用した私の思い込み発言ですので、違うと思われる宗教信者の方は私を攻撃することなく、読み流して頂けると幸甚です。

 プラセボ、ノーセボ

では、続きましてプラセボ効果、ノーセボ効果という話をしたいと思います。にせものの薬を飲んでも治ったり、にせものの毒を飲んで病気になったり。このにせものの薬、偽薬のことをプラセボと言います。そしてその反対がノーセボと言います。偽毒と言うのかは聞いたことありません。で、そういったにせ治療を受けても治る効果をプラセボ効果と言い、反対をノーセボ効果といいます。
そんなにせものの薬で治るなんて騙されやすい人だと思うかもしれません。しかし、プラセボ効果の平均有効率は55〜70%もあると言われているそうです。平均値に開きがありますが、にせ手術の有効率が100%といった結果が出ることもありますし、そういったものも合わせての平均有効率ですから凄いものです。自然に治すよりも格段に治るということです。
ヒューマン・エラーで人間は間違うものと言いましたが、無意識にも人間は間違って認識し反応するということです。
そして、ノーセボについてですが、ヴードゥー教という宗教で実際に呪術師に呪いをかけられた人が死ぬのが観察されているそうです。それくらいノーセボ効果も強烈なんです。
これは、心の効果としか言いようがありません。それぐらい心というのは病気が良くなったり悪くなったりに影響しているのですから、例え医療従事者に悲観的なことを言われただけでも、信じるものは殺されるわけです。これは医療従事者側も患者側も注意した方が良いと思います。無意識に出た言葉で治したり治らなくしたりする可能性があるということです。
この超健康道を実践すれば治ると信じれば救われる可能性が高くなるとも言えます。害はないと思いますので信じてみてはいかがでしょうか。
そしてノーセボですが、本当に世の中にはノーセボが溢れています。プラセボのような顔をしたノーセボも多いです。このサプリメントを摂れば膝痛が治るのをサポートしますなんてのも、摂らなきゃ治らないという印象を与えるノーセボが含まれています。

では、ノーセボの例を挙げてみたいと思います。まず、家族や職場の過剰な心配。これはその人たちも善意でやっている場合が多いわけですが、実際世の中のほとんどの人は心の健康について考えたこともない人ばかりです。その人たちの言葉が本当に健康のために気遣えているのかということです。過剰に心配し、安静を強要したりします。これはもう、身体の機能的にも悪影響ですね。
続いて、周囲の根拠の無い噂話。あれはこうらしいよというやつです。ちょっと体調がわるかったりすると、周囲の診断基準も知らない素人さんが様々な病名を教えてくれたり、自分と違う病気かもしれないのに自分の体験談を好意でいろいろとアドバイスしてくれます。治るアドバイスならまだしも、勝手に病人にして治らなくしていることも多々あるように思います。
次に売り文句、宣伝、PR、CMです。もうこれなんて売りたくて、あなたに必要だと思ってもらおうと薬事法ギリギリで攻めてきます。ちなみに擬音語、擬態語は薬事法に引っかからないらしいですね。この商品でスッとするとか、スッキリとか、スイスイ歩けるとか。こういったものは疑うべきということですね。ちなみに医学的な根拠としては、体験談、(医師の)個人的体験、動物実験などは信憑性の最も低いレベルの情報なんですね。だいたいの売り文句はこれを使いまくっています。
また、マスコミ情報もノーセボだらけですね。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、インターネットなど。無料の情報っていうのは誰かがお金を出しているわけで、それがスポンサーと呼ばれる企業だったりします。すると、その企業も売りたいものがあるので、商品について都合の良い情報は強調しますし、都合の悪い情報はあえて流させないですよね。テレビはみんなが見る絵的に面白いものをやるだけの話で、それが健康に良い情報だとは思えません。もちろんネットは良心的な人が無料で良い情報を流している可能性もなくはないですが、まあほとんど信憑性の低い情報ですよね。
最後に権威、専門家の発言、書籍なんてのも最初に言った通り、専門家だから健康になる方法を全て知っているわけでもないですし、かえって治らないような印象を与えられることも多々あります。専門家は間違わないというような妄想は捨てましょう。

 ハロー効果

また、ハロー(後光)効果と言いまして、ある一つの評価を受けた人や組織を他のことも同様のはずだと評価が歪められることがあります。例えば素晴らしい商品を一つ出した会社の商品は全て素晴らしいと思ったり、逆に一つ不祥事があった会社は何もかも不正なことをしていると思ったり、マナーの良いスポーツ選手は私生活も素晴らしいはずだと思ってしまったりすることです。
医者と言っても受験勉強が比較的できた人の行く末であって、受験勉強と関係の無い臨床や手術が信頼できるとは限りませんし、病気を治すのが得意かなんて無関係ですよね。こういったハロー効果という思い込みが少なからず人間にはありますから、ある一点で素晴らしいからと全て一般化しない注意が必要です。メディアでも一つ間違った報道があったからと他の報道も信頼できないとは限らないし、ある人の研究が有名雑誌に載ったからと言って、その人の研究が全て絶対に正しいとは限りません。他の評価に惑わされず冷静に物事を見つめる必要があります。
このハロー効果を意識することでノーセボ効果を多少避けることができると思います。

 習慣、中毒、依存症

次に、中毒や依存症についてですが、毎日の習慣もある意味、中毒、依存症と言えます。身体に悪い習慣を中毒、依存症と呼んでいるとも言えます。習慣とは何かと言いますと、潜在意識にすり込まれた無意識の行動パターンです。自分でやろうと思わなくてもそうしているのです。また、そういった習慣には陽性感情を連想しているものなのです。中毒、依存症になっている行動も、最初は意識的に実在意識でやっていたのですが、何度もそれをやるうちに無意識に習慣化してしまったということです。そして、何度やっても問題なく生きていけているということで、潜在意識が無意識に行動するようになってしまったと言えます。
ここで、毎日の習慣について考えて頂きたいことは、それは主体性を持ってあなたが利用しているのか、誰かに利用されているのかということです。酒、タバコなどの類は基本的に毒ですし、酒、タバコの会社を肥やしているだけで、自分の健康を害しているだけのものです。本当にそれに見合った快楽が得られているのでしょうか?ほとんどが、ただの中毒、依存症で、無意識にやってしまっているだけではないでしょうか。
病院の薬にしてもそうです。治らないと言いながらこれしかないと、生活習慣を変えることなく飲み続けている方を多く見かけます。これもある意味、中毒、依存症です。治らない効かない薬なら、やめた方が身体に良いに決まっているのはもうご存知ですよね。
これは実在意識で良くないことだと少しくらい思っても、もう習慣化して潜在意識で陽性感情と連想してしまっているということです。基本的に潜在意識でできてしまったパターンを変えるのは、苦痛を伴います。今まで問題なくやってきたパターンを変化させる必要性を、潜在意識はなかなか感じません。
この習慣を変えるにはまず、習慣を変えることに陽性感情を、変えないことに陰性感情をしっかり持つようにしなければなりません。できるだけ強烈に今までの中毒、依存症にマイナスのイメージを、これからの新しい習慣にプラスのイメージを身口意を使って持つようにします。そして、実在意識で最初は苦痛を伴なっても、その変えたい行為を何度も何度も意識的に繰り返すようにし続けることです。そうしているうちに徐々に無意識に習慣化していきます。これも感情の解放の問題だということが分かると思います。

 心の健康

ということで、いろいろと心の健康についてお話しましたが、参考になったでしょうか。心の健康は栄養や運動よりもずっと重要です。栄養や運動がいくら健康的であっても、心が不健康ならあなたは不健康です。逆に、栄養や運動が多少不健康でも、心が健康ならばその人は元気に健康でいられますし、健康になる行動も選択できるようになります。あなた自身、自我、存在感というのはあなたの心のことです。あなたを構成する物質、エネルギーはどんどん入れ替わるので、あなた自身ではありません。あなたの存在はあなたを構成する情報とあなたの心なのです。これらのことから、あなたを健康にするために一番重要なのが心だと言えます。しかも、やることは自分の心の持ちようなだけですから、あなたがこの世で一番コントロールできることのはずです。
自分は正しい、心は問題ない、完璧だということは、科学と同様にどこまでもあり得ません。私もまだまだ問題を解決しだした段階です。感情を解放し、志を持ち、志に生き、情報を選択する。心を健康にする方法は単純ですが、死ぬまで毎日確認し実行し続けなければならないと思います。私と一緒に心の超健康を目指しましょう。

 


 

第五章 健康に対する体質、環境の影響について

体質とは?

病気になって病院へ行きますと、結局この病気になったのは何故かと聞くと、最終的に体質ですと言われたりします。では、この体質やまた環境の影響について私の思うところを書いてみたいと思います。

体質ということは変えられない天命なのかと感じてしまいますよね。私は健康にこの世に生まれ出た以上、自分は死ぬまで健康になるようにできていると思っています。では、体質って何でしょうか。
遺伝子に書かれた情報だとすると親からそういう体質を受け継いだと考えられます。しかし、親は子どもに自分と同じような生育環境をしてしまうという部分もありますので、本当にそういう遺伝子に書かれた天命かどうかを正確に知ることは困難です。
また、遺伝子に書かれていたとしてもそのスイッチがオンにならないとその形質が発現しないと言われていますし、その病気体質の遺伝子がまたオフになるとも限りません。
では、突然変異でそういう体質になったのかという話ですが、今まで健康であった以上、健康になる能力があるはずだと私は思います。

 妊娠

では、本当に体質かという前に自我が育つ前の健康に影響する妊娠、分娩、育児の話をしたいと思います。今の私達にはその頃のことはどうしようもないのですが、体質と思われているものの中に、こういった物心がつく前のリスクによって発生したものがあるかもという話です。

まず、妊娠するとやたらと無理をしてはいけないと安静神話がここでも根強いようですが、実際は不要のようです。自然分娩で有名な吉村正先生の産院には「お産の家」というのがあって、妊婦さんに薪割りや家の拭き掃除など、現代生活では普段しないような運動をさせておられるそうです。そうするようになってから未熟児が全く生まれなくなったそうです。未熟児はゼロとおっしゃっていました。
もちろん流産することもあるそうですが、ほぼ流産した胎児は全例先天異常があり胎児に原因があるそうです。妊娠したら運動をよりするようにして、流産してしまった子は仮に産まれていたとしても障害のある子であったり、すぐに死んでしまうような子であったということだそうです。
単純に考えて、妊娠すると安静が必要な動物が、今まで生き残ってないですよね。

次に、日本の伝統の腹帯ですが、これは何も有効性が無いと言われています。しかし、伝統的にまだやっている産院などもあるようです。したことにより胎児への影響はどうか分かりませんが、基本的に絞めることは血流を阻害するので、効果がないと分かっているのにあえて絞めることはないように思います。
これも単純に考えて他の類人猿もどの霊長類も使っていないものが、人間にだけ必要と言うのは眉唾ものとしか言いようがありません。得をするのは腹帯屋さんだけかもしれません。

次に悪阻(つわり)についてですが、結構な高頻度で妊婦さんに起こっているようです。これは私はノーセボに近いものではないかと思っています。不安感が強いとか。多少ホルモンバランスの変化もあるでしょうけど、多分それは関係ないだろうと私は思っています。更年期障害もホルモンバランスが崩れるためと言われていますが、ホルモン補充療法と抗うつ薬の有効性が変わらないそうです。これはやはり、更年期のストレスの影響と言われているようです。となるとやはり、悪阻もストレスの影響じゃないかと私は考えています。結局、心の問題だとすると感情が解放できていないということになります。

こういった妊娠中の母親からのリスクに晒されることにより胎児の健康が害され、もしかしてそれ以後超健康な生活をして改善する見込みがあった場合でも、その子の体質だと言われていることもあるかもしれません。

 分娩

次に出産の話で、現在日本では分娩時にほぼ全例に行われている会陰切開という膣を切開する手技ですが、これは何の有効性も無いと言われています。多少、産科医に手技料が入るくらいだと思います。
私が思うに最初は多少でも利益になるとやりだした古き良き時代の先生が、後輩に分娩時の胎児へのストレスを和らげるのに絶対に必要であり、腟が変に裂けでもしたら母体に問題が残ると教育して自分を正当化しているうちに、後輩の素直な医師達が全例行なうようになってしまったんだろうなと思います。そして、切らない分娩を見たことのない産科医は切らないことが不安でたまらないんでしょう。もし切らなくて問題が起こったらどうしようとか。統計的には差がないことが証明されているのですが。
前述の吉村先生はじっと見る勇気が医者に無いとおっしゃっています。確かに医師全体に言えることですが、患者さんに何かをして問題が起こったら手を施したけれど手遅れでしたとか言えますが、何もしなくて問題が起こると放置されて問題が起こったと訴えられかねません。助けを求めて来られた患者さんが自分の力で十分に治るものだと思っても、何もしないことは医師として確かにとても勇気のいることです。しかし、多くの場合は変に触らない方が治るのを邪魔しないことの方が多いと私は思っています。患者さんの医師にすがりたいという感情を無視して、じっと見るのはとても勇気のいることです。

次に分娩時の子宮収縮剤使用や帝王切開のほとんどは患者の問題よりも医師の都合で行われているようです。もちろん、ちょっとした患者側リスクがあれば医師自身のリスクマネージメントとして行われるのも医師の都合と言えます。
ちなみに、アメリカでは日本と同様に分娩はほとんど病院で行われているようですが、一度一定の期間、医師がストを起こし、その間、新生児死亡率が激減したという統計があるようです。要するに医療介入で新生児を殺していたということです。恐ろしい。

よく帝王切開の理由で聞かれる胎児骨盤不均衡、赤ちゃんの頭がお母さんの骨盤に比して大きすぎるので産まれないというものですが、これも吉村先生によるとあり得ないそうです。大人なら縫合と言う部分で頭蓋骨がしっかりヘルメットのように固まっているのですが、赤ちゃんの頭は縫合が癒合しておらず頭蓋骨がまだバラバラなんですよね。大泉門、小泉門と言いまして赤ちゃんの頭にペコペコした骨のない柔らかい部分があるのは有名ですよね。なので、頭蓋骨をずらして頭を小さくできるらしいんです。だから出産前のレントゲンで赤ちゃんの頭が大きすぎるとか言って帝王切開したりしているようですが、実際は普通に産まれるそうです。

次に分娩時の体位ですが多くの病院で用いられるのは、いわゆる砕石位という仰臥位に寝て脚を挙げた分娩台に乗った姿勢です。これは医師が覗きやすいようにしているだけで、出産に適した体位ではないと私は思います。最近はフリースタイルを売りにしている産科もあるようですが、分娩台で赤ちゃんがなかなか出てこないと、頭を吸盤で引っ張る吸引分娩や頭を金具で引っ掛けて引っ張る鉗子分娩をやるのは意味が分からないですよね。瓶の中のものが指を突っ込んでも取れない時、通常、瓶の口を下へ向けて瓶のお尻を叩いたり揺すったりしますよね。重力を使えば簡単なのに、分娩台でわざわざ出口を上げて引っ張るって、単純におかしいなと私は思います。

 育児

最近は産まれた後にすぐに赤ちゃんをお母さんに抱っこさせることが重要と言われるようになってきました。これは前述の通り、赤ちゃんの精神発達上非常に重要なわけです。自己と他(母親)が分離されて初めての非言語的コミュニケーションで、自分に陽性感情を抱けるかどうかの重要な価値判断基準の形成ができるかどうかということでした。抱き癖がつくとか意味の分からない迷信が、欧米から近代医学として信じられてきたのが不思議です。これはきっと石田先生達の功績が大きいのではないかと私は思っています。「抱かれる子どもはよい子に育つ」。是非、読んでみて下さい。

そして、母乳育児の重要性も最近はよく言われています。私の子ども時代なんてミルク全盛期だったのではないでしょうか。それで身体が弱くなった人も同世代の人の中に多少いるのではないかと思っています。それで病院へ行くと体質ですと言われている可能性もあります。大腸内視鏡で有名な新谷先生という方が、牛乳や肉食が多い人は胃や腸が荒れて汚くなっているので牛乳や肉は身体に良くないと本に書かれ、乳業畜産業界から科学的でないと攻撃されました。
私の単純な食事法から考えても人間が牛乳を飲まないと健康になれなくなっているわけがないと思います。牛の子どもが飲まなければならないものを人間が大人になってから飲み続けないと健康になれないなんてあり得ないですよね。要素還元論的に考えても糖質は乳糖が多くて消化が困難ですし、タンパク質はカゼインという母乳に無いものが多く、脂質は飽和脂肪というあまり摂らない方が良い脂肪がいっぱいです。何をもって「科学的でない」と言っているのでしょうか。

次に離乳食ですが、歯が生える頃から始めましょうと意味の分からないことを言う人が多いですね。野生動物が歯が生えたからといって母乳をやめないでしょう。子どもが欲しがる間はあげるんじゃないですか。また、次の子を妊娠したら離乳しないと流産しやすくなるという迷信もありますが、これも根拠がないようです。最近は男女共同参画社会ということで、お母さんの産休育休が終われば育児から離れなければならない家庭も多いので、欧米化に伴いできた風習でしょうけれど、子どもの健康には良い影響が無いように私は思います。また、要素還元論的には腸管の発育が完成する前に母乳以外の食事が入ってくると腸管のバリアがまだ未熟でそのまま食物が血液中に未消化で入ってしまい、アレルギーを起こしやすくなるという話もあるようです。
そして、離乳食は色々発売されていますが、育児書で有名なスポック博士という人も書いているようですが、離乳食はフルーツで十分だそうです。やはり、基本的に人間もまだまだ果実食だった影響が残っているのだと思います。大人もフルーツが身体に良いと私が考えているのは前述の通りです。

 子育て

次に子育ての話に行きまして、子どもが健康かどうか親が判断できなく、不安感の強い親は病院頼みにすれば良いと考える方も多いようで、やたらと病院に連れて来られている子どもを見かけます。医師も何かしないと親が納得しないのでそういう子どもはカルテも分厚く、大量に処方を受けて薬漬けになっています。可哀想です。
では、自分の子どもが健康かどうか分からなくて不安な親御さんへ向けて私から少しアドバイスします。医師の国家試験での話ですが、基本的に小児科の問題で「子どもは機嫌が良い」というキーワードが入っていたら、「経過観察」という選択肢が正解なんです。何かしたら不正解なんです。なので、皆さんもそう考えて頂ければ良いと思います。多少、子どもが健康じゃないのではと不安になっても、本人が機嫌良くしていたらそのまま見守ってあげて下さい。

子どもの発熱にしても小児科の先生によりますと、子どもは37.5℃までは平熱だそうです。そして、39℃を超えるまでは投薬加療対象では無いそうです。37℃で子どもが熱を出したと思わなくても良いということです。変に薬を投与することの方が危険な可能性があります。インフルエンザ脳症になった子どものほとんどは下熱鎮痛剤を使用されたためとも言われています。

このように、自分の健康を自分で管理できる自我が育つ前にも様々なリスクに晒される可能性があります。もちろん、リスクというのは全員がおかしくなったりするというものではなく、それで望ましくないことが起こる可能性が高くなるということです。ほとんどの人はリスクに晒されても元気に育つように強く生まれてきています。
ちなみに、連続殺人犯を調査されたプロファイリングで有名なロバート・レスラーさんは「殺人犯の家庭は外からは正常に見えても、実際は問題を抱えていた。そして全員〜一人残らず〜子供のときにはなはだしい精神的虐待を受けていた。」と書いておられます。もちろん問題のある家庭で育った良い子もいるわけです。連続殺人犯の兄弟が普通の人であることも多いようです。ただ、リスクにたまたま耐えられなかった子がそういったことになってしまうということです。リスクが無ければ普通に問題なく成長できたのかもしれないということですね。

また、躾と言われるものがありますが、これについても私見ですが述べたいと思います。私は現在、躾と呼ばれているもののほとんどは独善的な親の行為のように感じています。実際、街中で聞いていますと「なんでお母さん(お父さん)の言うことがきけないの。」という躾という怒り方をしている親を多く見かけます。これって凄い発言ですよね。親を敬うことを強要していると言うか、自分は絶対に正しいみたいに聞こえます。叱っているという次元を超えてただわがままに怒っている親も多いように感じます。
医学的には認知行動療法と呼ばれる方法があります。これは簡単に言いますと飴と無視(鞭ではない)ということです。
これは、動物の調教にも言えることのようですが、イルカや犬以上の高等な知能を持った動物は飴と鞭の鞭は逆効果になると言われているんです。萎縮してしまったり反抗的になったりしてしまいます。正の強化とも言われていますが、良いことをした時に褒めることが重要だと言われています。そして、悪いことをして注意しても言うことを聞かない時は無視です。
高等な動物ですら、こうなんですから人間なら尚更そうです。そう考えると、体罰なんて本当に難しいと思います。私の学生時代なんて校内暴力流行直後の頃ですから、意味の分からない体罰を先生からよく受けましたが、友達と「アイツ、アホやな。」って言われているだけの存在だったりします。
まあ、社会に出ると理不尽な人も多いので、それを前もって見せておく反面教師的な効果はあるかもしれませんが、尊敬される親になろうと思うなら飴と鞭はやらない方が良いと思います。
この鞭による躾というのは、どうしても使う場合は極短期間にするべきと言われているようです。長期的に罰を与えるというのは、やはり高等な動物には向かないようです。
だいたい日本人の親は、褒めないですよね。何も欧米化を勧めているわけではありませんが、もう少し褒めても良いのではないかと思っています。
この認知行動療法は、自分の行動を変える時にも使えるものです。目標を達成した時のお祝いを予定して頑張るというやつですね。短期的な目標を持てず価値観で行動するタイプの私にはあまり向いてない様に感じていますが。

 コミュニケーションについて

では、ほとんどの人が自分の大きなストレスの原因だと思っている他人との交流、コミュニケーションの話をしたいと思います。もちろん感情を解放し志を持ち、自分の心を健康にするのがまず第一です。周りの出来事、もちろん周りの人の発言、行動にも何の意味も無いことは説明しました。しかし、それでも上手くいかないのがコミュニケーションだったりします。

例によってKIS原則で説明します。
相手に自分の望む行動をしてもらう方法。それは、相手にやりたいと思わせる以外に方法はないということです。
騒ごうが暴れようがそれ以外に方法はありません。
コミュニケーション・スキルといえば神経言語プログラミング(NLP)やデール・カーネギーなどがありますが、結局、どういうテクニックを使おうとも、それ以外に無いというのが結論です。
周りの人が自分の望まないことをしてくる。これをどうにかしようと相手を変えようとするのが困難なことは皆さんご存知でしょう。となると、感情を解放し自分の責任で自分をコントロールして相手に合わせるしか方法はありません。相手を変えるよりも自分を変える方が簡単なのは明らかです。相手と過去は変えられない、自分と未来は変えられるとよく言われます。
大宗教の教祖なんて恐らくこのコミュニケーションがとんでもなく上手だったのだと思います。お釈迦さんが対機説法をしたのも、まず相手の世界に入ってから自分の悟りを悟らせるというコミュニケーションの達人だったからでしょう。
ということで、上司であろうと、彼女、彼氏であろうと、配偶者であろうと、わが子であろうと、自分が望ましいと思う行動をとらせるには、相手の立場、感情に寄り添い、相手がやりたいという気持ちにさせる以外に方法はないということです。

 お金について

では資本主義社会で重要なお金と健康の話をしましょう。
ロバート・キヨサキさんの「金持ち父さん、貧乏父さん」を御存知ですか?この方もお金の話にKIS原則が重要だとおっしゃっています。この本の中に貧乏と中流と金持ちの違いについて説明されています。一般論ではないかもしれませんが面白い定義なので紹介したいと思います。
まず、財務諸表とキャッシュ・フローが重要だとおっしゃっています。収入と支出(損益計算書)、資産と負債(貸借対照表)に分けてお金の流れを見るということです。収入と支出は分かりますね。資産と負債の違いがロバートさんは資産というのは自分のポケットにお金を入れてくれるもの、負債というのは自分のポケットからお金を持っていくものと定義しています。
そして、お金持ちになるには、お金の稼ぎ方ではなくお金を働かせることが重要だとおっしゃっています。
貧乏は仕事からの収入を全て支出から出してしまう人のことを言うそうです。年収1億円でもその年に1億円使う人は貧乏だという考え方です。
次に中流は仕事からの収入でまず、負債を払いそして支出から出て行くのが中流だということです。クレジットカードを持っていたり、多少の銀行ローンや借金がある人は中流ということです。多少お金を借りることができて、財務諸表の損益計算書だけではなく貸借対照表も使えるのが中流だということです。ほとんどのお金持ちと思っている人、特に医者や弁護士などの専門職は中流に含まれると思います。
そして、金持ちはというと仕事からの収入があり支出もあるのですが、支出で使い切れない残りで資産を買うそうです。そして、その資産からも収入が入り出し、総支出を資産からの収入が超えると仕事からの収入が不必要となり、こうなった人を経済的自由、金持ちと定義しています。仕事からの収入が年収300万円でも資産を買い続けて、資産からの収入が総支出を越えたら金持ちということです。

では、ロバートさんは資産をポケットにお金を入れてくれるもの、負債をポケットからお金を持っていくものとしていますが、資産と負債の根本的な違いはなんでしょう。
これは成功の9ステップという本を書かれたジェームス・スキナーさんという方がおっしゃっていたのですが、負債は自分のためにお金を使うもので、資産は他人のためにお金を使うものであるということです。資産と言えば土地などの不動産と考える方が多いかもしれませんが、ロバートさんは持ち家は負債だとおっしゃっています。確かに固定資産税や光熱費など、ポケットからお金を持っていってしまいます。そして、持ち家は自分のものです。逆にアパートやマンションなどは人に貸すことによって資産になります。自分のポケットにお金を入れてくれるもので、他人の住むところを買っているわけです。

この考え方で私が感銘を受けたのは、金持ちになるか貧乏になるかはお金の稼ぎ方ではなくて、使い方だということです。そして、少なからず金持ちになるためには人のためにお金を使うことが必要だということです。
一般的にお金持ちというのは、いっぱいお金を稼いで自分の大きな家を買って高級外車に乗ってみたいなイメージですが、本当にお金持ちになろうと思うとそういうことをしていてはダメだということが、単純ですが納得できるものでした。
世の中のイメージとは異なり、金持ちになっている人は社会に貢献している人が多いということですよね。考えてみると当たり前で、社会に貢献しない人にみんなお金を払いたくないですよね。実際にその人が所有していなくても、志のある人のところにお金が流れると言えるかもしれません。
ガンディーやマザー・テレサなんて清貧って感じですが、志に共感した人々からもの凄いお金が動いたのは明らかです。

 お金と健康

で、何故、お金の流れと貧乏、中流、金持ちの話が健康と関係あるかという話をします。
経済的に豊かな国という指標で国内総生産:GDPが使われることが多いですが、GDPと平均寿命を調べたグラフがあります。それを見ると、GDPが高い国では平均寿命が長い傾向があることが分かります。つまり、金持ちは長生きする傾向があるということです。
よく、私は長生きなんかしたくないし健康には興味無いとか言いながら、お金は欲しいと言っている人を見かけますが、お金は寿命を伸ばしてしまう傾向があるんです。長生きしたくないなら貧乏が良いということです。

もう一つGDPと幸福度を調べたものもありますが、これは全く相関しません。インドネシアやタンザニア、ブータンなどは国民の幸福度は高いのですが、GDPは下の方です。これらの国に日本はGDPでは勝っていますが、幸福度は負けています。となると幸せになるのにお金は関係ないということです。
よく、お金がなくて不幸だという人もいますが、これは階層原理を考えない巨視的傾向としては関係ないということです。
お金はその人の人間性を増幅するだけという話もあります。お金は幸せな人はより幸せに、不幸な人はより不幸にするということです。お金持ちになると太っ腹な人はより太っ腹に、ケチな人はよりケチになるそうです。
幸せはどうでも良いが長生きしたいという人はお金持ちになる必要があって、幸せになりたいけれど、長生きはしたくないという人はお金を手に入れる必要は無いと統計的な傾向から考えられます。世の中、逆に思っている人が多い気がしませんか。これらのことから言えることは、幸せになろうとお金の話に固執すること自体、心が不健康であると考えられます。しかし、経済状況が寿命に影響することから多少健康のために必要な知識かもしれません。
ちなみに、国別の医療費と平均寿命も全く相関しません。医療費が高い国が長生きという傾向はありません。この医療費と平均寿命という意味では、日本は医療費が安く平均寿命が長いという世界有数の優秀な国なんです。また、国民あたりの医師の数も日本は少ないのに国民の健康状態も良いという素晴らしい国でもあります。それなのに、日本は医療費が少な過ぎて、医師も少な過ぎると欧米化を期待する人がいます。平均寿命という視点から見れば、欧米が日本のように医師を減らして医療費を減らすように考えるべきで、日本が欧米化する必要は無いと思うのですが。この超健康道が普及すれば、更に医師も必要なくなり、安く長生きになるんじゃないかなと私は妄想しています。

 寄付と投資

お金持ちになるにはお金を働かせる、お金で資産を買う、つまり人のために使わなければならないことが分かりました。人のためにお金を使うという意味で、寄付と投資があります。簡単に言うと、寄付はお金をあげることで、投資はお金を貸すことと言えると思います。
一般的に寄付する人は偉くて、投資する人は貪欲みたいに思われがちです。しかし、私は最近この考えも間違っているのではと感じています。寄付というのは本当に難しいと思います。寄付された側の人のために本当になっているのかということです。
貢献したことに対する報酬ではなくお金をただ与えて得したと思わせると、その人の思考が善悪ではなく損得勘定に傾いてしまいます。本当にどうしようもない状況にいる人が自立するのに使われるのなら良いのですが、結局寄付に依存する人間になってしまうという危険性があります。

疾病利得と言いまして、病気であることでお金がもらえたり、無料で治療が受けられる被害者の方などは、本人が意識しようがしまいが病気、症状が治り難くなることが知られています。
整形外科をしておりますと、病気のふりをする詐病と判断も困難な、診察所見や検査所見では全く異常が無いにもかかわらず、強い痛みがある患者さんが来られます。そういった患者さんの中には、疾病利得のために治らないのではと思われる方も少なからずいます。診断書を重病に書いてくれなどと平気で言ってこられる方も中にはおられます。こういったお金の使われ方は無責任な寄付と同様に、お金がもらえたりタダで治療を受けられる本人は満足かもしれませんが、受動的、依存的になり本人の心は不健康になりますし、本人の人生にプラスになっているとは私には思えません。世界の進化発展を妨害することになってしまいます。

国の補助金や公共事業なんてほとんどが無責任な寄付であると私は思っています。寄付はお金を渡して終わりじゃなく、渡してからが渡した側の責任の始まりだと思います。
逆に投資は、もらった相手が破産して返せなくなることはあっても、基本的に借りたお金ですので増やして返す義務があります。本人がその借りたお金を使ってそれ以上の価値のあるものを生み出さなければならないということですし、借りた人もまた、社会に貢献しなければなりません。
パナソニックの創業者・松下幸之助さんが晩年、無税国家論というのをおっしゃっていました。国が税収の1割を投資し続ければ、いつかは投資収入で国が運営できるようになり、税収が要らなくなるという考えです。現在は、国は国民に国債という形で借金まみれになっている正反対の状態ですが、この考えのように国が国民に借金するのではなく投資していれば、国民も国のために働いて成功すれば自分もいつかは無税になるという、国民に労働意欲を増す良い方法だと私は感じています。
以上から、寄付は余程注意しないと人間の堕落に使われる可能性があり、ほとんどの寄付は無責任にばらまかれたものだと思いますし、投資の方が世の中のためにお金が使われ簡単に社会の役に立っていると思います。下手に寄付をして他人の心の健康を害しないように注意しなければならないと思います。

 お金と武士道

昔、我が国では士農工商という階級制度がありました。そのためか基本的に損得勘定というのは商人や乞食などの身分の低い人がすることという考えがあったようです。お金で損だ得だと考えることは良くないという考え方です。位の高い人間は損得ではなく善悪で動くという考えがあり、倹約を美徳とし、もったいないという言葉も日本だけにあるようです。
しかし、武士がタダ働きをするという意味でもありません。命を懸けて人々を守った報酬はもちろんもらいます。報酬はもらうけれども、それ以上に損得がどうのこうのを気にするのは卑しいという考え方です。
これは現代の経営者の中に見られる考え方です。松下幸之助さんは利益が欲しければその10倍社会に貢献すれば良いと言っていますし、イエローハットの創業者の鍵山秀三郎さんは小さな努力で大きな結果を期待するのは危険であり、大きな努力で小さな結果が望ましいと言っておられます。正当報酬以上の損得勘定は危険だということです。
損得勘定である、儲かってラッキー、損してアンラッキーなどと考えるのは、自分のコントロール外のことですよね。主体性を持つ人生の方が健康的であることを考えると、他人や出来事にコントロールされる可能性のあることに一喜一憂することは心を不健康にすると言えます。
自分の心の健康のためには、「武士は食わねど高楊枝」の気持ちが重要だということですね。

 環境問題

では、次に環境問題について考えてみましょう。
環境問題というと、エネルギー問題や自然破壊の問題と言って、エネルギー資源の枯渇や絶滅危機の生物がいるのが問題だと言ったりします。しかし、そうでしょうか?
結局のところ、人間、つまり私たちの健康、存亡の問題と言えます。エネルギー資源が枯渇すると人間の社会生活を今の状態に維持できませんし、どんどん生物が絶滅して生態系が崩れていきますと、人間も生物ですから、いくら農耕畜産しているとは言え生態系の一部であることに違いはありませんから、食糧危機となり人類絶滅の危機が訪れます。
つまり、環境問題は人間の問題であって、環境がどんどん人間に不都合になってもこの世、大自然、天地、神仏は何も困らないんですよね。ただ、そういう風に変わっただけなんです。
で、この人間にとっての環境問題も本を正せば、人口増加の問題であると私は思っています。ジェボンズ・パラドックスと言いまして、石油、石炭をいくら効率よく消費して消費を減らそうとしても消費は増える一方だとジェボンズさんが予言しています。いくらエコカーを作っても世界人口は増加の一途を辿り、世界中が先進化の一途を辿っていますから、エネルギー消費は増え続けるということです。また、いくら食糧問題を解決しても、食料が賄えるだけ人口も増えますから、食糧問題も解決しないとも言えます。
これらを考えると人口を減らすか個々に倹約する以外に道はありません。そういう意味では中国の一人っ子政策は的を得ていたのかもしれませんが、結局国は先進化すると少子化するという傾向があるようです。いくら子ども手当を出そうが、産休育休や保育園を充実させようが、男女共同参画社会で先進国化するとどうしても子どもが減ります。だから、エネルギー問題の解決にエコな消費財を作ったり、少子化問題の解決のために子どもを増やそうとするのは間違った方策だと考えられます。エネルギー消費を減らしたかったら、戦前の日本のように倹約を美徳とする教育を全世界でやり、少子化問題とは少子化する社会をどうすべきかを考えるのが正しい対策だと思います。結局政府が愚策を講じなくても、先進国化すると少子化して人口が減るわけですから、そのうちどこかで世界人口も頭打ちになって落ち着いてくるのかもしれません。

 体質、環境のまとめ

ということで、体質や環境は健康にとってそれほど重要ではないように私は思っています。体質と思われている多くは生まれた後に被ったリスクなどによって発生した問題である可能性が高いように思いますし、変えられない体質や環境を変えようと無駄な努力をするのなら、自分で変えられることをコントロールすれば自ずと身体は健康になってくれると思っています。

 


 

第六章 現代医療、整形外科診療について思うこと

 医療の目的

まず、医療とはなんでしょうか。医療と言いますと、病気を治すものというのが一般論かもしれません。
では、そのまま様子をみていれば治る病気だったらどうでしょう。そう診断された時点で治すという目的は達成されましたが、そう言ってもほとんどの患者さんは納得して帰りません。では、何を求めているのでしょうか。ほとんどの患者さんは治るのではなく、現在の不快な症状を早く楽にして欲しいと希望されています。要するに対症療法を求めて来られています。この時点で病気を治すのが目的では無くなっています。
人によっては寂しさを和らげるために話を聞いて欲しいだけではないかと思われる方も来られます。慰められたいだけという方も少なくないように感じています。
また、症状も軽度で受診の必要性がないことを説明しても、毎日来られる方もおられます。こういった方はだいたい受診によりお金がもらえるなどの疾病利得の方に多いように思います。
では、逆に現在の医療では治らないと判断された人は、来る必要が無いのでしょうか?それはそうでは無くて不快な症状を抑える対症療法や心のケアが必要で受診される方もおられるでしょう。
あと、死なないために病院へ行くと思っている方も少なからずおられます。確かに延命治療として、自然経過で見るよりも、多少時間的に長く呼吸や心拍を維持する方法はあります。しかし、病院で生きているという状態が多少長くなったところで、誰しも死ぬ運命にあるわけで、病院で死ななくするものではありません。最近、病院で亡くなると医療ミスじゃないかなどと、過剰に被害者意識の強い方もいるようですが、ほとんどの人は病院で亡くなるわけですから病院へ行けば死なないということは絶対にありません。
以上のように目的が不明確なところがまず医療の大きな問題だと思います。

 現代医療の得意分野、不得意分野

現代医療は慢性疾患にはあまり有効では無いと言われています。慢性疾患と言いますと、徐々に悪くなっていく病気やいわゆる生活習慣病と言われるものなど、長期間治らないもののことです。現在受診患者数がもっとも多い高血圧や、患者数が増加している糖尿病も、病院へかからなければならない病気と考えている方がほとんどで、確かにそれも重要ですが、生活習慣病だと考えるとそれよりも自分で予防に心がけることの方が余程重要です。
現代医療は短期的な対症療法が得意です。痛い時は痛み止め、血圧が高い時は降圧剤、血糖値が高い時は糖尿病治療薬、どれもよく効きます。しかし、薬を中止すれば元の木阿弥、もしかするとより酷い状態になっているかもしれません。短期的な対症療法が得意なだけに慢性疾患が不得意という部分もあるように思います。
急性疾患と言われる急性の感染症や多発外傷や心肺停止の蘇生措置など、現代医療は素晴らしく効果のあるものも多々ありますが、それに比べると慢性疾患は確かにパッとしません。
整形外科で言うと通常2ヶ月くらい歩けないような骨折でも、手術をして2週間程度で歩けるようになったりします。しかし、一方、慢性疾患の変形性関節症に対する人工関節手術などは、術後にやった甲斐なく寝たきりになっているような例も無くはないですし、腰痛疾患の多くにおける手術成績は自然経過と長期的には変わりません。反論される整形外科医もいるでしょうけれど、実際老人ホームの入所者で人工関節が入っている寝たきりの方も結構おられます。
この慢性疾患に有効性が低い理由の一つに、患者さん一人一人の生活背景を無視した画一的な診断、治療に問題があるとも言えます。毎日、健康に気をつけ超健康道を実践している方も、毎日テレビの前に寝転んで呑んだくれている人も、同じ症状が出れば同じ診断、同じ治療になります。おそらく、同じ症状が出て同じ治療をしても予後が全く異なると思います。
まず、医学というのは病気の学問で健康の学問ではないというのもあります。病気で無い人は全て正常で健康な人間であるという暗黙の前提があります。だから、保健指導と言って健康増進のための指導が軽視され、治療法と言えば生活指導よりも投薬、手術などの対症療法で危険なものということになってしまいます。

 医療ビジネス

また、医師の収入は労働やサービスに対する対価支払いであり、患者さんが治るか治らないかの結果は影響しません。確かに自然の一部である複雑な人間を相手にしているので結果は読めないという部分もあります。また、患者側も最近は近代化による道徳感の低下とともに、治らないと言えばお金を支払わなくて良いと言われるとみんな治っていないと言いかねないですし、疾病利得を与えることによって患者を増やす可能性もあり、完全に成果報酬というのも難しいと思います。
また、どんどん新しい工学技術が導入され、最先端医療機器が出てきて、医療費が増大し続けているという問題もあります。最先端の高額医療が必ずしも劇的に病気を治しているとか、寿命を劇的に伸ばしているということはありませんし、費用対効果が悪いわけです。しかし、人間相手の医療というのは感情的な部分もあるので、費用対効果が悪くても少しでも一人でも可哀想な患者さんがいたら何とかしたいということで、どんどん医療費が跳ね上がっていくわけです。
仕事というものが、社会へ経済的に貢献するものであると考えると、医療という仕事は患者さんが早期に社会復帰し、元気に仕事ができるようになり、生産性の高い人になってもらう健康増進が目的となりますが、そうすると現行医療制度では医療者が儲からないということになります。
この超健康道が当たり前になれば、医療費を減少させながら健康寿命も伸びるんじゃないかなと私は期待しています。まあ、私は廃業してしまうかもしれませんが。
また、医療に関しては伝統を重視する傾向もあり、現在行われている検査治療が費用対効果の悪い、効果の無いものだと証明されても、そのまま放置される傾向にあります。以前、治療根拠の無い理学療法の点数(値段)が大幅に下げられ、期間も限定されたことがありました。これは、効果が出ていない上に患者数が莫大であったために、医療費抑制と言う意味では正当な判断だと私は思いました。しかし、結局、医師側からの理学療法で維持している?患者さんが可哀想だなどという現実を無視した感情論で元に戻されました。
こういった、過剰なサービスに偏重した医療にかかる費用は、健康に悪影響を及ぼす可能性があるという医学論文すら出ています。高い医療費負担は健康を脅かすと言われているのです。

 画像診断について

こういった問題を抱えている現代医療ですが、では、個々に現状を見てみましょう。
まず、画像診断の話からしましょう。エコー、X線(レントゲン)、CT、MRI、PETなど、画像で見る検査です。
これらの中で放射線、つまり、原水爆などで放出される有害な電磁波を使う検査にX線、CT、透視、PETと呼ばれる検査があります。そして、割と高頻度に使われているX線、CT、透視検査を受ける患者さんは低線量率の境界を超えています。要するに、許容される被爆量を超えている、発癌などの危険が増す量の放射線を浴びているということです。
ダウン症と呼ばれる遺伝子異常の子どもが高齢出産になるほど多くなると言われていますが、これは健康診断でレントゲン検査をやり出す前には高齢出産でもそれ程リスクが高くなかったという報告もあるようです。最近は女性の晩婚化に伴い社会的理由から高齢出産の年齢をまた引き伸ばしているようですが。
一回の腹部CT検査で、広島で微量線量被爆し癌のリスクが高くなったと言われている線量を機械によっては超えているようです。
超音波や磁場を使ったエコーやMRIはまだ比較的リスクが低い検査だと言われていますが、エコーは熟練しないとなかなか確定診断が難しかったりしますし、MRIは逆に鋭敏に捉えすぎたりケミカルシフトと言われるものなど画像の乱れもあったりで、膝の半月板損傷などはMRIで断裂と診断されても手術してみたら断裂所見が無かったということもあります。
そして、そういった高価な検査機器であるCTやMRIのうち、世界の1/3が日本にあると言われています。これは、日本の国民皆保険制度が優秀で、高価な検査、治療を安く受けられるシステムのお陰だと言われています。しかし、もちろんあれば使わなければ元が取れませんから、それだけ使われているということです。唯一の被爆国の日本がX線診断による年間癌発症者が世界で群を抜いて一番多いという皮肉めいた結果も報告されています。
よく、頭部打撲されたお子さんを連れて来られて、親御さんがどこで聞いたかCTを撮って欲しいと症状も無いのにおっしゃったりします。うちの子がもし症状の無い頭部打撲にCTを医師の判断で撮られていたら、私はその医師に切れますけどね。子どもの癌のリスクを上げたくないですからね。しかし、一般の親御さんがどこで聞いたかCTを撮ることが良いと思われるということは、それだけ気楽に撮りまくっている医療機関があるので撮っておかないと心配だという誤った噂が出回るんだろうなと思います。

 予防医学について

次に予防医学と呼ばれる内容についてですが、予防医学って御存知ですか?私のセミナーに参加してくれた中学生の子に聞いたら、病気にならないようにすることと言ってました。子どもなら字面のままでそう思ってしまいます。しかし我々大人はそうは思わないんですよね。え?思ってました?でも、お医者さんはそう思っていないんです。
現代医療において予防医学と言いますと、早期発見、早期治療のことなんです。その中学生は言っていました。「もう、病気になっていて予防になってないです。」
だから、集団検診は予防医学としてなされているわけです。しかし、検診についても最近は有効性の検証などなされているわけですが、有名なメタボ検診の有効性は大いに疑問視されていますし、胃癌は早期胃癌と進行胃癌は別物という話もありますし、肺癌検診、乳癌検診なども予防の有効性は疑わしいようです。ある意味、検診という医師の仕事を作るという意味と、早期に医療機関を受診させて患者数を増やすという医療の営利的側面もあるのではないかと思わざるを得ない部分もあります。

そして、唯一予防的な意味のありそうな予防接種ですが、これも最近では新型インフルエンザのワクチンが足りないなどという話があり、十分な予防のためのワクチン確保が問題視されているようですが、その前にインフルエンザワクチン自体の有効性がまだ議論されています。これも偉い先生方が難しい統計の話を持ち出して効果があるやら無いやら言っておられますが、どっちか分からないってことはどっちでも良いってことで、それなら痛い思いをしてまでリスクのあるものを受けたくなくて良いというのが私の考えです。実際、北欧ではインフルエンザワクチンを接種する人がそれ程いないため、ワクチン不足が起きなかったという事実もあるようです。
これも、有効性がしっかりと分かっているものを接種して欲しいですよね。数は少ないと言われていますが、人によってはギラン・バレー症候群や薬剤アレルギーによるショックなどの重篤な副作用が出る場合もあるようです。インフルエンザワクチンの面白いところは、接種していたので症状が軽くなったとか言っている迷信にやられた人が結構医療者にいることです。もう、新興宗教の領域に感じてしまいます。罹らなくなるのがワクチンのはずなんですが。

このように、医療者側に本来の予防という意識が希薄であるという問題があるようにも思います。実際、不健康な医療従事者も多く見かけます。医療従事者の病気の罹患率が低く、寿命が長いなんてことは聞いたことが無いわけで、医者の不養生なんて言葉が昔からあるように、どうも医療従事者は病気の治療や金儲けという部分に目が行って、健康増進には興味を示さない人が多いように思います。
本来、医学というもの自体が病気を研究する学問であって、健康になるための学問ではないわけですから、更に健康になりたいという人には適さない学問であると言わざるを得ません。本来の目的は予防にはないわけですから。
献血すると不健康なドリンクを渡されますし、病気の治療をしなければならない病院の中に最近では不健康な食事の代表と言われているファーストフード店やコンビニが入っていたりしますし、健康を害する代名詞である喫煙所も院内に設けてあります。患者数を増やすために、患者さんが置いて欲しいという施設を誘致したのかもしれませんが、別の意味でも患者数を増やそうとしているとしか思えません。まったく健康を増進する気がありません。

もちろん予防医学という意味でも、この超健康道が大きく皆さんのお役に立てるのではないかと思っています。

 リハビリテーションについて

次にリハビリテーションについてお話しましょう。
まず、リハビリテーションという意味は皆さんご存知ですか。機能回復訓練という意味です。リハビリがしたいと病院を受診されて、元気そうに動かれており、機能はそれほど低下していないので必要性が無いのではと説明すると、どうもリハビリというのは慰安であるというイメージを持たれている方が多々おられます。リハビリと言うとマッサージを受けたり、機器を使った牽引、温熱、電気などで気持ちよくなることと考えておられる方が大多数ですね。それも素人さんには致し方ないわけですが、実際、リハビリを行う理学療法士自身がマッサージをリハビリと呼んでいます。しかし、マッサージや慰安機器で機能が回復するのでしょうか。
例えば、食事においても美味しいものと栄養のあるものはイコールではありません。身体に必要なのは栄養のあるものであって、美味しいものではありません。栄養の足りていない人に、その人に必要な栄養が入っていない美味しいものを与えますと、その人は美味しいと満足されるかもしれませんが、その人の栄養不足は解消されません。
同様に、手技や機械によるマッサージは気持ちイイと思います。しかし、気持ちイイことと、運動機能低下が解消されることとは全く別問題です。
実際、病気じゃなくても美味しいものは美味しいのと同様に、病気でなくてもマッサージをされると気持ちイイですよね。そして、腰痛、肩こりや関節痛などの部位にマッサージをしても気持ちイイんです。では、運動機能を少しでも高めたいトップアスリートが受動的な気持ちイイことだけをしていて機能が向上しオリンピックで優勝することなどあり得るでしょうか。受けていたとしても、ハードなトレーニング後の慰安としてやっているわけです。回復のためにと思ってやっているアスリートも多いかもしれませんが、私は回復がそれによって大幅に改善しているとは思えません。普通に考えると、そういった慰安を受けているトップアスリートも、トップアスリートになるまではそんなことされなくても頑張ってトップまで行ったわけですよね。トップレベルのボディビルダーの方もよくそういったマッサージや手技療法を受けている方が多いようですが、トップビルダーになるまではひたすらトレーニングをしてその身体を作り上げたのであって、マッサージでその身体を作り上げたわけではありません。

このマッサージが病気を良くするという考えは、概ね安静神話の延長だとしか思えません。どこまで行ってもそういうものは慰安であり、機能回復にはつながりません。
慰安は気分転換程度に利用するのには結構なことだと思いますが、依存しだすと中毒、依存症になってしまうわけです。そうなると自分でもマッサージをやっているから維持できているなどという誤った記憶の連想、自動思考を作ってしまいます。実際に、マッサージや機械ですっかり治って、もう行かなくて良くなったというのは聞かないですよね。だいたい通い続けておられます。
ビジネスの世界でゼロベース思考やアプローチの改善という考え方があります。今やっていることが上手く行ってないときにもしゼロからやり始めるなら同じことをするだろうか、やらないなら違う方法をやりなさいというビジネスにおける考え方です。健康も同様です。慰安やサービスに傾いた医療を受けて依存しているだけで一向に症状が改善していないのなら、それに執着するのは愚かだと思いませんか。やってダメならやり続けるではなく、やってダメなら方法を変えるというのが鉄則です。

一時期リハビリテーションにパワーリハビリテーション、略してパワリハという、筋トレのマシンを導入するのが流行したことがありました。しかし、有効性が無かったと言われています。これに私は異議を唱えたいと思います。マシンがあっても理学療法士のほとんどが使い方も知らないと私は思っています。
以前、理学療法士の方とトレーニングをしに行ったことがあるのですが、カーフレイズマシンというふくらはぎのトレーニングをするマシンがあり、ふくらはぎをトレーニングするマシンであることは分かったようですが、やっているのを見ると浅いスクワットという太腿の前面の大腿四頭筋を使う運動をやり出して驚きました。ふくらはぎの筋肉を使ってないよと教えてあげましたが。学校で習って試験に通っても、その程度のスキルしか無いということです。その理学療法士の方は私とトレーニングへ行きたいというくらいですから、スポーツ選手のリハビリに興味があると言っていました。そういう理学療法士ですら、その程度のスキルしか無いのには驚きを通り越して呆れてしまいました。
そして、パワリハは効果がないので今度は身体の使い方、コーディネーションの問題だとか、コアがどうのこうのと現在流行していますが、筋トレのやり方が分かっていないのに、コアマッスルを鍛えるなんてことは不可能だと思っています。
ということで、私は運動器のリハビリテーション、機能回復訓練には基本的にレジスタンス・トレーニングいわゆる筋トレしかあり得ないと思っています。

 対症療法とは何か?

では、何度かお話させもらった対症療法について話したいと思います。対症療法ということをそのままで捉えてくださいね。症状に対する治療法ということで、症状を起こした原因とは無関係であるということです。よく、対症療法ですと言うと、気休めでいいのでとかおっしゃる方がおられますが、対症療法は原因を治療しないだけで、気休めでは無く立派な治療法なのです。
しかし、現代医療においては原因治療というのはほぼ無いと言えます。ほとんど全てが対症療法です。ということは、風邪を引いて風邪薬を飲むというのは、風邪の不快な症状を抑えている間に身体が免疫力で風邪を治してくれるわけです。原因は治療していないということです。
このように現代医療は対症療法を得意としています。しかし、慢性疾患に有効性が低いのは、長期間症状を抑えても勝手に治ってくれない病気だからだと言えます。原因にアプローチしていないのですから仕方のないことです。慢性疾患は生活習慣病と言われて久しいですが、結局単純に考えると、栄養、運動、休養、心の使い方の問題であると考えられます。そこを放置して対症療法して、治療が得意で無いのは当然なことと言えます。

また、緩和医療(ターミナル・ケア)と言いまして、現代医療では治療法のない死に至る病に罹ったときに、対症療法と心のケアをやるというのがあります。では、ほとんどが対症療法の普通の医療と何が違うのでしょうか。私が至った結論は、医療者側が自分の力で勝手に治ると思っているか、死に至る病気だと思っているかだけの違いで、やることはそれ程変わらない気がします。死に至ろうが自然に治ろうが痛いという人には痛み止めを出すわけですから。

では、痛かったり、くしゃみが出たり、鼻水が出たり、熱が出たり、そういった不快な症状とはなんなのでしょうか。これは心や身体からのSOS信号であったり、または自然治癒過程であったりします。今まで述べたような生活習慣の間違いを正して欲しいという信号であったり、また傷がジュクジュクしたりするのは治そうという反応で、多少臭かったりしますがその症状が悪いわけではありません。
私たちは病気=症状と捉えがちですが、そうではないということです。実際、症状がないとどうでしょう。
ウィルスの上気道感染が起こっているのに咳も鼻水も出ず、熱もでないで免疫が働かず、いつまでもウィルスを殺したり除去できずにどんどん衰弱して死に至るかもしれません。AIDSは免疫が落ちる病気ですが、通常どうってことのない菌などの感染が致命的になります。
怪我をしても痛くなかったらどうでしょうか。怪我に気付かずそのまま使い続けて更に怪我を悪化させてしまうかもしれません。実際、無痛無汗症という先天性疾患や感覚神経の麻痺で痛みがわからなくなった患者さんもいますが、そういった人の関節はシャルコー関節という若くして年寄りの変形性関節症のような関節になってしまいます。
このように症状があるから、私たちは自分の身体を守ることができるのです。言うなれば火事が病気で、火消しの纏持ちが症状のようなものです。火事が起きても纏持ちが火事だ火事だと教えてくれなかったら消火活動ができなくなってしまいます。自然に鎮火する火事なら良いですが、どんどん燃え広がっていく火事なら手遅れになってしまいます。
慢性的な症状は生活習慣の変化を求めるSOS信号だとも言いました。では、対症療法とはどういったことでしょうか。先程も述べたように自然に鎮火する火事のようなものなら良いですが、燃え広がる火事ならば、対症療法はそれを知らせる纏持ちを殺すようなものです。
火事だ火事だと纏持ちが現れても次々に殺していったら一向に火事は火を弱めないということです。
一時期不快な症状を抑えるために対症療法を用いることはそれほど害ではないと思いますが、原因を改善する努力なしに対症療法を続けると害が広がると理解したほうが良いかと思います。

 注射、手術とは何か?

では、次に注射や手術について考えて見ましょう。注射や手術って何ですか?注射というのは穴の開いた針で皮膚を貫いて、体内から血液や膿などの液体を穿刺吸入したり薬液を注入したりします。手術というのは概ね構造的な異常がある場合に、異常な部分を矯正したり、異常な部分を切除し、残りの部分に機能障害が起こらないように再建をしたりするということです。
では、仮にあなたが健康だとして、注射や手術をされるということはどういうことでしょうか。これは傷害行為以外の何ものでもありません。仮に健康なあなたが道を歩いていて、通りすがりの名医がすれ違いざまに、注射や手術をしてきたらどうしますか。もう、傷害罪で訴えますよね。
病院でなされて、理由が納得できるから、これと同じことをされてもありがとうと思うわけです。
しかし、整形外科の外来診療などをみてますと、治らない治らないと訴える患者さんにはどんどん投薬量が増えて行って、それでダメなら注射、それでダメなら手術、それでダメなら精神科みたいなことがなされているのを見なくもないです。そういった診療の影響もあって、一番ありがたいのが手術、その次が注射、一番効果の少ない治療が内服薬みたいな風潮ができているのでしょうか。
前述したプラセボ効果ですが、注射や手術はプラセボ効果が高いようです。やられた感だけでなく、本当にやられてますからね。痛い注射ほどよく治る、要するにプラセボ効果が高いといった話もあるようです。
患者さんで診察室に入ってくるなり、「注射して」「点滴して」と症状も病名も何も分からないのに言ってくる人もいます。こういう方にとって注射はありがたいもので、もう信仰に近いものがあるのでしょう。
子どもの頃は泣き叫んで押さえつけられてやる注射も、高齢者になって信仰に厚くなると進んでしたくなるのは奇妙なものです。まさに裸の王様と言えなくも無いですね。

 ばい菌について

次にばい菌についてお話したいと思います。
よく、菌と言うとばい菌、ばい菌と毛嫌いされる潔癖症の方がおられます。恐らく子どもの頃から親に菌がいると汚いと刷り込まれて菌に陰性感情を抱くようになったんでしょう。
しかし、実を言うとほとんどの細菌、微生物と我々人間は共生関係にあります。今西錦司の進化論を思い出します。自然は調和していて共存共栄しているんですよね。腸内細菌がいるから我々は微量栄養素を作り出してもらえるので健康に生きていけます。また、綺麗で健康な皮膚にも皮膚常在菌の存在が不可欠なのです。人間一人いたら、その人の細胞数は60兆個と言われていますが、その人に住んでいる細菌数は100兆個と言われています。その細胞よりも多い細菌がいるから我々人間は健康でいられるのです。
そして、病院では菌がいるかいないかを検査するのに細菌培養検査というのがあります。これで培養されたら菌がいた、培養されなかったら菌がいなかったとしています。しかし、動物も養殖できるものとできないものがいるように、Viable But NonCulturable(VBNC)と言われる培養されない細菌も多数いるとのことで、培養でいなかったから必ずいないとも限らず、また逆に注射などで穿刺した液の細菌を調べる時などは皮膚にいた細菌が混入することもあり、一概に培養で菌が出なかったら菌がいない、出たから必ずいるとも限らないという不確かな部分もあります。
このように、細菌がいるのかいないのかもはっきり分からず、また、いてもほとんどの場合問題ないということなのです。では、感染するとか化膿するとかはどういった問題なのでしょうか。結局のところは菌叢のバランスが崩れ一部の菌が異常増殖したり、傷が異常に多くの菌に汚染されたところに触れたり、感染源となる異物、壊死組織があったりということが問題であり、菌自体の問題ではないことが多いようです。
ばい菌を消毒、滅菌というのがパスツール以来、正しいこととされていましたが、菌などの微生物の世界も基本的に調和のとれた世界であるということです。逆に過剰な消毒、滅菌は調和を乱すとも言えます。

 抗生物質について

そして、次に抗生物質の話をしたいと思います。
抗生物質とは基本的には細菌を殺す薬のことです。だから、ウィルス、真菌感染や寄生虫などには効きません。ほとんどの風邪や腸炎などはウィルス性で抗生物質は効きません。よく薬剤メーカーがウィルス感染で弱ったところに細菌の二次感染が起こるからとか意味の分からないことを言いますが、風邪から肺炎になる人なんてほとんどいません。それよりも漫然投与により耐性菌を作るということの方が問題になると思います。どんどん細菌が抗生物質に効かなくなっているということは有名です。
そして、抗生物質の普及と感染症の減少が相関しないというのも言われています。抗生物質の普及よりも衛生環境や栄養状態によって感染症は減ると言われています。だから衛生環境の悪いところで抗生物質を多用しても意味がないようです。
そして、現在、家畜や養殖魚などにも大量に抗生剤を投与しているようです。抗生剤を撒く仕事をしている人が妙な真菌感染症になるとかも言われていますし、気楽に大量に使うものでもないのではと思っています。
医療機関で勤務していますと、本当に乱用と言っても過言では無いように感じます。とりあえず、熱が出たら出しておくといった状態です。処方しなくて細菌感染症だった場合訴えられる可能性がありますが、処方して別の感染症や別の病気でも文句は言われないという医療者側のリスクマネージメントとしての習慣だとは思いますが、自分としては余分な薬、化学合成物質は体内に取り入れたくないですね。実際、自分が蜂窩織炎などの細菌感染症になった時は、日常診療では間違いなく抗生物質を処方しますが、自分は自然に治しました。難しいところです。

 新しい創傷治療

次は創傷治療についてお話したいと思います。これは、「新しい創傷治療」で有名な夏井睦先生の本やウェブサイトを見て頂ければよく分かると思いますので、ここでは、ポイントだけお話したいと思います。
怪我をした時になぜ治るのか。それは損傷された皮膚細胞が細胞分裂して表皮でまた覆ってくれるからです。ということは、皮膚細胞が細胞分裂、培養されやすい環境にすれば良いということです。乾燥させると細胞培養ができないのと同様に、細胞分裂というのは乾燥した環境ではうまくいきません。ということで怪我は、湿潤環境、ジュクジュクさせる、潤わせておくことが重要だということです。
そうすると、感染、化膿が怖いと思う方が多いかもしれませんが、ここで消毒をすると先ほどの細菌の説明どおり、自分の細胞が死んだ壊死組織という感染源ができてしまったり、菌叢のバランスを崩す可能性があります。そして、消毒しても2,3時間もすれば元通りの細菌叢に戻るので、本当に菌がいない状態を維持しようと思うと毎時間消毒する必要があります。痛くて耐えられないですよね。夜も寝られないですし。ということで、感染源を除去するという意味で生体親和性の高い清潔な水で洗い流すのが消毒なんかよりもずっと良いということです。この清潔な水というのは日本では水道水で十分だということです。
こういった理由で、夏井先生は傷を治り難くする消毒、乾燥させるガーゼの撲滅のために日々心血を注いでおられます。偉い先生です。
これは、珍しく要素還元論が著効した例だと思います。メカニズムが単純だったので理屈通りの結果が出たと言えるかと思います。実際、傷が早く治りますので、皆さんお試し下さい。

 急性外傷の応急処置

次は、打撲や捻挫などの急性外傷の初期治療についてお話したいと思います。
よく、学校で怪我をしたりすると保健室で湿布を貼られて先生と受診されたりします。しかし、学校の保健の時間には急性外傷の応急処置に湿布とは習いません。
急性外傷の応急処置はRICE療法と言われています。別にRICEと言っても“米”をどうこうするのではありません。RICEは頭文字をとったものでRはRest、怪我したところの局所安静という意味です。IはIcing怪我したところを冷やすということです。CはCompression怪我したところを圧迫するということです。EはElevation怪我したところを挙げておくということです。
これは何をしているかと言いますと、怪我をして内出血したりして腫れるのを抑えようということです。なぜ、内出血で腫れるのが悪いのかと言いますと、内出血して腫れますとそこの圧が高くなって血液が送れなくなります。すると循環障害を起こして治り難くなるという理屈です。本来血のあるところは治りやすいのですが、そのための出血が圧をあげてしまうと逆に循環障害になることがあるということです。コンパートメント症候群と言って酷くなると筋肉の壊死や神経障害を起こすこともあります。こうなると減張切開と言って、皮膚を切って圧を下げる必要がある場合も出てきます。ということで、急性外傷の応急処置はRICE療法で湿布では無いということです。

 湿布とは何か?

では、次に応急処置に使わない湿布についてお話します。
よく、「温湿布が良いんですか?冷湿布が良いんですか?」と聞かれる方がいます。
ここで、病院で処方される湿布は何かと言いますと、基本的に消炎鎮痛剤を経皮吸収させるだけのものです。要するに湿布は痛み止めです。
そして、冷湿布は薄荷、ミントに入っているメントール系のスーッとする物質が入っていて、ヒヤッと冷たい感じがします。温湿布は辛子に入っているカプサイシン系のヒリヒリする物質が入っていて、ポカポカ温かい感じがするということです。夏に炭酸飲んでスーッとするというようなもんで、炭酸自体は逆に温室効果ガスで何も冷えないし温められもしません。だから、どちらが良いのですか?という意味では好きな方で結構です。ただし、温湿布の方がヒリヒリ系なので、皮膚の弱い人は負けやすいということです。そういった理由で、一般的に病院では主に冷湿布を処方するんですね。
ちなみに最近流行りの冷えピタシートですが、熱の出た子どもがよくおでこに貼ったりしていますが、あれも小児科の先生に言わせると皮膚温を2、3度程度下げるだけで、アイシングで身体の発熱を抑えるほどの効果は無いそうです。湿布なんてそれよりも皮膚温を変えません。

 腰痛について

次に腰痛の話をしたいと思います。
これは、EBMが導入されて一番変わったと言えるものだと思います。有訴者数が莫大に多く、統計がとりやすく、また迷信めいた治療類似行為、代替補完医療も横行しているので、余計に面白い結果が出たのだと思います。
この内容を詳しく知りたい方は、元国際腰痛学会会長の菊地臣一先生の著書やTMSジャパン代表の長谷川淳史先生の著書を読まれれば良いと思います。ただ、菊池先生の方はやや伝統的整形外科治療、現在行われている整形外科診療に配慮されている部分が多く、遠慮した書き方をされているように思います。講演される時のEBMの話はほぼ同じです。

では、伝統的な腰痛概念についてお話したいと思います。
姿勢や身体の動きが原因の年寄り病であり、身体の悪い動きや使い過ぎが原因で、それによる骨、椎間板の歪みが発生し、それが画像検査で分かります。そして、骨や椎間板の歪みが神経を圧迫するのが痛みになり、鎮痛剤、筋弛緩薬、胃薬、湿布の組み合わせが有効で、リハビリで牽引、電気、温熱療法やマッサージをすると治りやすく、ブロック注射はさらに効果が高く、でもダメな場合は手術で矯正すれば良くなるという風に思われていますよね。

しかし、現在も日本の腰痛患者さんはずっと増加中なのです。これは、厚生省が統計を取り出してからずっと増加傾向にあります。このことから、今までの伝統的な概念で診断治療していてもうまく行っていないということです。つまり、現代医療、代替補完療法ともに腰痛には無効であるということです。そして、我々の暮らしは先進国化しており、より、身体を使わず動かなくても良い暮らしになっています。それなのに患者数が増加しているということは、身体の動きや使い過ぎは腰痛に影響していないか、逆に運動不足が影響しているかもということです。実際、発展途上国のアフリカなどでは先進国で見られるような外傷ではない腰痛というのはほとんど見られないようですし、これらの国の人々よりも我々日本人が腰を酷使しているとはとても考えられません。
そして、統計的に30代を中心に腰痛患者、腰痛初発患者が多いということです。このことより、年寄り病では無いということが分かります。また、脊椎や椎間板の変形という現象は年齢とともに増加して行きます。となると、腰痛のある方は30代をピークに減って行く、変形のある人は30歳以降も増え続けて行くとなると、統計的相関では変形のある人は腰痛を起こさなくなるという結果になってしまいます。となると、構造異常で神経が圧迫されているという理論の正当性が崩れてしまいます。構造異常のある人の方が痛くないという傾向があるのですから。
これによって、腰椎椎間板ヘルニア、腰椎椎間板症、腰部脊柱管狭窄症、腰椎分離症、腰椎辷り症、変形性腰椎症、腰椎椎間関節症、腰椎側彎症などの病態は腰痛とは無関係である可能性が高いということです。
また、構造異常として捉えていた脊椎や椎間板の変形に一番影響を及ぼす因子は、遺伝であると言われています。運動や姿勢や食事の影響は少ないと言われていますので、脊椎や椎間板の変形が原因なら腰痛は遺伝病で予防不能ということになってしまいます。しかし、腰痛に遺伝性はありません。
これらのことから、脊椎や椎間板の変形は単なる加齢変化で病気ではないということが分かってきたのです。

どうして腰痛は年寄り病という信念を医療従事者を含めて持っている人が多いのでしょうか。それはやはり医師というのは患者さんを診るわけですから、患者さんと認識できるのは外来を受診されている人だけです。受診しない患者さんは患者さんとして診れません。そこで、どうしても時間的に余裕があり年齢的に身体に不安を抱えた高齢者が多数病院を受診することになります。すると若くて働き盛りで休めない人は同じ症状でも受診しない傾向になります。すると、統計を知っている医師でさえ、本当は年寄り病じゃないのかと思ってしまいます。

では、何が先進国において腰痛を増やし続けている原因となっているのでしょうか。
結局、どこかが壊れて損傷されているから痛いという因果関係がどこにも見つからなかったということや、俗に言うストレスの有無と腰痛との相関が強いことから、そういった心理社会的な問題が腰痛を増やしていると言われ出しました。要するに腰痛はいくら矯正しようと手術しようと腰の構造を変えたところで治らない機能障害だということです。

では、治療としてはでは何が有効なのでしょうか。
現在行われているような受動的な治療、牽引、物理療法、マッサージなどは統計的には無効であり、コルセットは腰痛の予防、治療ともに有効性は無く、安静は害であると言われており、運動習慣は慢性の腰痛には有効であると言われています。
また、ここまで読まれている方なら分かると思いますが、いわゆるストレスが原因なら心を健康にすれば良いということが分かります。ほとんどの腰痛というのはいくら痛みが強くても逆にストレスとなるので重症であるという考えを全く持つ必要が無く、腰をどうこうしなければならないという問題ではないのです。

 神経痛、放散痛、関連痛

また、神経痛や放散痛、関連痛というものや、頚肩腕障害、肩こりなども同じような傾向にある痛みと言われています。これらもどこかが損傷されたために起こっている症状では無いということです。
普通に考えて、ただ生きているだけで加齢変化によりどんどん神経が障害されていくような動物が、今まで生存できたとは思えません。当たり前に考えれば当たり前です。
神経を除圧する手術が無かった時代は、高齢者はみんな神経がズタズタに障害されて、麻痺して動けなくなって尿も便もダダ漏れになっていたなんてことは考えられないでしょう。現代病ですから、そういうおかしな信念を植えつけられた人間だけに起こっている現象だとも言えます。

 肩こりの治療

では、肩こりの治療について最近の統計データから言えることはカイロプラクティックなどの徒手療法は無効、マッサージは有効性不明、薬物、注射は有効性不明、電気治療は有効性不明、鍼も有効性不明ということで、不明のものは良いというものや悪いとういものがあるということです。そして、運動だけは有効性があり、マッサージや徒手療法でも運動と組み合わせると有効性があると言われています。
感情の解放につながるのか、運動の直接的な筋力などに及ぼす影響かは不明ですが、とりあえず、慢性腰痛と同様に肩こりにも運動は有効だということです。肩こりとストレスとの関連が以前から指摘されていることから、私は身口意の身からの影響で運動の有効性が高いという結果になっていると思っています。

 変形性膝関節症について

では、次に変形性膝関節症についてもみてみましょう。
これは、特に高齢女性に多く、O脚変形を伴った膝関節痛があり、膝の内側に痛みが出るというものです。
そして、一般的な概念について説明しますと、原因は肥満により膝に負担がかかり、使いすぎによって軟骨が磨耗したためで、関節に水が溜まると注射で抜かないと治らないが、抜くと癖になる。湿布や薬は有効で、ヒアルロン酸は潤滑油を補給することによって軟骨が回復するのでヒアルロン酸を注射するのが有効であり、サポーターや安静で関節の負担を和らげたり温めたりしなければならない。靴の中敷のインソールで外側を持ち上げることによってO脚が予防でき、とりあえず、痛い時は安静にしなければならない。どうしても痛みが持続し歩行不能になれば、人工関節置換術という手術を受ければO脚も膝の痛みも治せるというものです。

では、整形外科医が知っている事実について説明しましょう。軟骨が障害される変性疾患というのは間違いない事実です。ただ、腰痛と腰のレントゲンほどではないと言われていますが、膝関節痛と画像所見の軟骨の変性に不一致がそこそこ見られます。そんなに画像上は悪くない人がすごく痛がったり、かなり画像で変形が進んでいるのに、最近ちょっと痛いと歩いて来られたり、一概に画像だけで痛みの程度や機能障害の程度が分かりません。実際、痛みが軽度でレントゲン所見が高度の患者さんが人工関節手術を受けられて、手術後の痛みの方が強いと訴えられているのも見たことがあります。

そして、関節に水が溜まる関節水腫ですが、これは滑膜炎と言って関節の中の膜が炎症を起こしているから水が溜まると言われています。だから、炎症が引けば別に注射で抜かなくても水は無くなりますし、癖になるとかはよく意味が分かりません。中毒ってことでしょうか。いつまでも治らないのを癖というのかもしれませんね。この関節水腫ですが、私は関節機能が落ちているところに能力を超えた負荷がかかり、負荷から関節を水のクッションで守るための合目的的な反応ではないかと思っています。適度に痛みが出たり、関節が変形するのもそういった合目的的な反応だと思っています。
実際に、若く膝の軟骨にも問題のない方でも、突然長時間歩き続けたりすると膝に水が溜まることがあります。これも普段運動不足で能力が衰えたところに、過剰な負荷が関節にかかったために起こる反応だと思います。このことから、若いうちからいかに機能を高めておくかが重要だと考えています。特に筋力の弱い女性は筋力を維持向上させる習慣が重要です。

次に、ヒアルロン酸製剤ですが、これは当初は軟骨を保護する作用を期待して作られたものですが、現在はそういった作用が無いことが知られており、関節機能改善と言う名目の鎮痛剤として使用されています。医師側としては、注射を希望される患者さんにステロイドや麻酔薬のような副作用が強く出る可能性があるもので鎮痛するよりも、比較的副作用の少ないヒアルロン酸製剤を使っているという程度で、軟骨が注射で治ると思っている整形外科医はいないと思います。
ちなみにサプリメントのグルコサミン、コンドロイチンなども有効性が無いことが示されてきています。

そして、靴の中敷のインソール、足底挿板ですが、これも絶対的に有効性のあるものではないようです。まあ、害は少ないので害のあるものから試すよりは良いのではと言う程度の私の認識です。

で、結局、膝を伸ばす太ももの筋肉の大腿四頭筋の筋力低下が除痛にも変形の予防にも有効性が示されています。この大腿四頭筋は高齢者では特異的に筋力低下を来たします。力の強い筋肉なので一本の神経が支配する筋肉量が多いので、神経が加齢変化で変性してくると特異的に弱りやすいとも言われていますが、要素還元論であり、詳細は不明だと思います。
実際に筋トレをやりだした高齢者の方をみていますと、若者なら絶対的に膝を伸ばす筋力の方が曲げる筋力よりも強いのですが、本当に曲げる方が強くて伸ばす方が弱くなっています。
そして、色々と病院では楽な筋トレを紹介していますが、パワーのかからない楽な筋トレなんてあり得ないのはもうご存知ですね。
私は骨粗鬆症や変形性膝関節症の方に積極的に筋トレのスクワットを指導していますが、やる人には良好な結果を得ています。スクワットも私の説明した筋トレではない、楽な浅いスクワットを頻度を上げて毎日する方が多いですが、残念ながら効果が低いと実感しています。

 腱鞘炎、腱炎、靭帯炎、関節炎について

感染症や代謝異常以外の時は使い痛みだと考えられているこれらの疾患ですが、圧倒的に女性に多く、やはり筋力が問題ではないかと思われているようです。痛み自体は日にち薬でだいたい治りますが、スポーツ医学界では治療はストレッチと筋トレしかないと言われています。これも安静のためにと装具が処方されたりしますが、装具の有効性は明らかでないですし、安静で痛みが取れるのが早いと証明されているわけでもありません。
私の認識では変形性膝関節症と同様に、持っている能力を超えた身体の使い方をするとこれらの症状が出るのではないかと思っています。持っている能力が高い人でも高強度な運動をやり続けると、皆さんの認識通りの使い痛みが起こると思っています。しかし逆に持っている能力が低くなってしまい、それ程の運動量でないにも関わらず痛みが出る場合もあります。そして、圧倒的に後者の方が多いように思います。これの治療としてはそう考えると、運動強度か量をある程度下げるのと後は時々しっかり筋トレをするしかないと私は考えています。

 五十肩について

次に肩関節周囲炎、いわゆる五十肩についてですが、これも基本的に日にち薬です。痛みは自然と治まることがほとんどです。しかし、問題は可動域制限であると言えます。痛いので使わないでいると拘縮といって、関節が固くなって動かなくなってしまいます。すると、痛みが取れてきても動かない肩になってしまいます。
五十肩も、レントゲンやMRIで精査してみますと、石灰化があったり、肩腱板と言われる肩関節を取り巻く筋肉に菲薄化、断裂所見が見られたりします。こういった、石灰沈着性腱板炎や腱板断裂がある肩関節痛は一般的な五十肩では無いという整形外科医も多いとは思いますが、私はそうでもない印象を持っています。実際、石灰化していても自然と治られる方がほとんどですし、症状が治っても石灰化は消えていないことがほとんどです。また、腱板断裂に関しても手術などで見ていますと、老人の腱板はペラペラに薄くなって切れているだけで、若い人が事故や運動で切れた断裂とは明らかに異なります。これは加齢変化であって外傷では無いと思います。実際、菲薄化断裂のある患者さんでも経過観察で治られる方もほとんどですし、日本のようにどこにでもMRIがあるから分かるわけで、無い国では結局通常の肩関節周囲炎として処置されて問題になっていないわけですから。
そして、この五十肩も運動している人はなりにくい傾向にあるようです。

 むち打ち損傷について

では、次に交通事故などによるむち打ち損傷、外傷性頚部症候群(頚椎捻挫、頚椎挫傷)についてお話したいと思います。
まず、例によって伝統的概念からお話したいと思います。
交通事故などの外力によって発生する組織の損傷が原因の頚部の痛みがあり、症状は後から出ることがある。
鎮痛剤、筋弛緩薬、胃薬、湿布などの薬、マッサージや温熱、牽引などの物理療法が治療として有効性がある。
そして、時々、腰部から髄液が漏れ出すこともあり、こういった脳脊髄液減少症では嘔気、嘔吐、頭痛などが持続することがある。
と、いったものでしょう。

しかし、交通事故に対する補償制度がないリトアニアや、追突事故の被害者に対し補償が行われていないギリシャでは、慢性的な障害は1例も存在しないと言われています。
補償制度があると、後から症状が出やすくに髄液が漏れやすいなんておかしな話だと思いませんか。
そして、安静、頚椎カラー、牽引は治癒を遅らせ、物理療法、薬、注射は無効と言われています。
こうなると、これも腰痛と同様に明らかな機能障害だと言えますし、現代病です。ある意味ノーセボ効果だと言えます。
最近の裁判で、むち打ちと診断されていたのに脳脊髄液減少症だったなどと、医師が裁判で負けるような判例があるようです。本当にご勘弁をって感じです。あり得ない病気を作り出して病人を増やして、更に病人を増やすような判例を作るなんて、国民の健康を厚い福利厚生や裁判で害しているとしか思えない国の愚策が多々あります。
治そうとして犯罪者に仕立て上げられるのなら、誰が整形外科医になるのでしょうか。良心を捨てて病人を増やして金儲けに走る医師が優遇されて、良心のある医師が逮捕される世の中って終わってますよね。

 骨粗鬆症について

次は閉経後の女性には興味深い骨粗鬆症についてお話してみましょう。
骨の中のカルシウムが無くなってスカスカに骨がなる病気という認識ですよね。
しかし、骨がスカスカになっても別に外からは見えないですし、心配は無いわけです。では、何が困るのかと言いますと病的骨折と言いまして、通常なら骨折しないような弱い外力で骨折してしまうのが問題なわけです。良くあるのは脊椎の圧迫骨折ですが、これは、神経を損傷するようなことが無ければ通常は大丈夫なのですが、大腿骨頚部骨折と言いまして、股関節部分で大腿骨が折れますと、早期に手術しないと歩けなくなる、整形外科で数少ない緊急手術の適応となります。これは直接的な救命という意味よりも早期に手術した方が予後が良いことが分かっているからです。
では、骨を硬くするにはどうすれば良いのでしょうか?確かに骨塩と言いまして骨の中のカルシウムなどが増えると硬くなります。しかし、口からカルシウムをたくさん摂ったから骨が硬くなった、骨のカルシウムが増えたということは無いようです。また、食物の酸性度が問題という話もあります。どうしても現代的な食事はアルカリ性のものであるサラダやフルーツを食べないので酸性になりやすい傾向はあるようです。
もちろん骨塩量を測ったところで、骨は硬くなりません。よく、骨粗鬆症かどうか心配で測りに来ましたという方がおられますが、骨塩を正確に測るDEXAという検査も少なからずX線を使うので被爆します。骨が硬いか心配で被爆しに来たなんてナンセンスだと思いませんか。
カルシトニンというホルモン剤やビタミンDなども骨を強くすることを期待されていましたが、それほどの骨折予防効果は無かったようです。
最近ではビスフォスフォネートと呼ばれる薬が骨折を予防すると言われています。しかし、骨というのは常に骨芽細胞というのと破骨細胞という細胞が骨を作ったり壊したりしながら、骨折して変形しても元の形に戻したりと、常に代謝しています。このビスフォスフォネートというのはこの破骨細胞という骨を壊す細胞を抑えます。この破骨細胞というものの機能が障害される病気があり、大理石病と言います。しかし、大理石病は骨折しやすくなる病気なのです。このビスフォスフォネート製剤の副作用で数は何万例に1例程度のようですが、異所性骨折というのがあります。これは、大理石病で骨折したとも言えるのではないでしょうか。また、顎骨壊死、食道癌のリスクなども言われています。
では、どうすれば効果的に骨粗鬆症による病的骨折を予防できるのでしょうか。実は骨の硬さと筋力は相関するというデータがあります。また、骨を強くするには骨に衝撃が加わるような運動でないと意味が無いとも言われています。となると、筋トレしかないと思うのですが、いかがでしょうか。
また、高齢者の転倒なども最近では問題になっています。バリアフリーなどが叫ばれて、どちらかというと手厚い福利厚生が求められています。しかし、転倒しない筋力と転倒しても折れない骨があれば問題ないわけです。となると、それでもどうしても筋トレをしたくない人は、若いうちからバリアだらけの中で生活するようにして、家は和式にして部屋に入る前後に座って扉を開け閉めし、便所も和式でしっかり足腰を鍛え、不必要に階段だらけにするといった感じで、少しでも筋力を維持するしか無いのではと思ったりもします。

 整形外科慢性疾患の治療

このように整形外科の慢性疾患をみてみますと、だいたいが運動不足、筋トレ知識の欠如による筋力の低下と、ストレスなどの心の問題から生じていると思われます。となると、その二つを解決すれば慢性疾患で整形外科疾患のお世話になることはほとんど無いということです。方法は既に説明しました。後はやるかどうかだけです。
残念ながら多くの方が安直に手を出しやすい薬やサプリメントなどは、整形外科疾患についてはそれほど効果が無いように思われます。それよりも心の健康と運動習慣、筋力の維持向上です。

また、アイデンティティの重要性も説明しましたが、病名を自分のアイデンティティとして持ってしまって逆に病気になっている方も多くみられます。
ちょっと心配性なのが神経症と呼ばれ、ちょっと眠れない日が続いたら不眠症と呼ばれ、交通事故後の症状が続けば脳脊髄液減少症と呼ばれ、不安感が強ければ心的外傷後ストレス障害などと呼ばれ、ちょっと腰が痛いと椎間板ヘルニアだ、変形性脊椎症だ、脊柱管狭窄症だなどと言われ、疲れたら慢性疲労症候群と言われ、ただの運動不足を廃用症候群だ、運動器不安定症、ロコモーティブシンドロームだと呼ばれ、肥えたらメタボリック症候群と呼ばれ、次々に開発される病名で病人にされて行きます。うつ病は本人に病気だと認識させることによって自殺を思いとどめさせる意味はあるかもしれませんが、基本的に病名で病気になっている人の方が多いように感じます。
自分の状態を病名で納得したい気持ちも分からないでもないですが、あなたはあなたの人生を自分で生きているんです。人にアイデンティティを決められる必要はありません。
基本的に我々の身体は自己治癒力で治るようにできているので、あえて病人にならなくても良いと思うのですがいかがでしょうか。

一般的に満足度の高い外来診療とは、視診、問診ではしっかり傾聴してもらい、理学所見を聴打診や器具を使ってしっかりボディータッチしてもらい、そして最新の医療機器での検査を行い、治療は薬を処方してもらい、リハビリと称するマッサージ等の慰安を行い、必要によっては注射や手術をしてもらうというものです。しかし、自分の満足度とは裏腹に治るかどうかは別問題であり、逆に健康を害する危険性もあるということに気付いて下さい。そういった診療行為に満足して、健康増進をはかり病気を治して豊かな人生を生きるという目的を見失わないようにして下さい。

基本的に資本主義の世の中です。仕事というのは利益が上がらなければ意味がありません。そして、お客さん(患者さん)は望む結果に報酬を支払うわけです。しかし、経営者は単価を上げ、新規顧客の獲得、リピーターの獲得を目指さなければ利益につながりません。あらゆる手であなたの満足度を上げ、また来てもらおうとします。しかし、それはあなたにとって本当に有益なものなのか、依存する価値があるのか一歩下がって見直す必要があるように感じます。あなたは別の満足に目がくらんで本来の目的を見失っているかもしれません。利用するつもりが利用されているかもしれません。商品によってはあなたが満足しているつもりでも、健康を害しているものかもしれません。
これは、医療についても同様に言えることです。

最後に私なりに奇跡の治癒という話をいくつか調べていて思ったところをお話したいと思います。まず、奇跡の治癒を達成した方に共通するのは、心の健康を維持しているということです。前向きに積極的に考えるようにしている方が多いですし、プラスの感情を持つようにされています。
そして、何よりも、身体に害の少ない方法から治療法を試してみているということです。心を前向きにするなど、何の害もありませんね。あと、よく皆さんが間違っているのが、運動は害で安静は益だと思っているということです。基本的に安静は害で、運動は害が無い、もしくはやり方によっては益であるということです。そして、栄養に関しては、カロリーに限らず過ぎると害だというのも重要です。サプリメントで栄養を摂りすぎても、多くの場合益は無さそうです。実際、粗食の方が長生きするという動物実験結果もあります。
基本的に病院で行われていることは害の大きい検査治療法です。だからこそ、医師という人にしかそういった危険なことができないように規制されているとも言えます。しかし、概して医師というのは医療の害を軽視している傾向があるように私は感じています。危険な検査、治療ほど高額であり医療者の利益となるという影響もあるかもしれません。
まず、何が害で何が益かということをしっかり自分の中で単純に考えてみるのが重要ではないかと思います。
医療はあなたが参考にし利用するものであり、医療者の言いなりに奴隷になる必要はありません。あなたの身体はこの世の何よりもあなた自身のものです。それを他人に丸投げするのだけは避けるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
この超健康道が、あなたの健康で充実した人生の一助になることができれば幸甚です。

 


 

終わりに

以上お話させて頂いたのは、あくまでも私の主観的な私ならこうするという意見です。現在行われている標準的医療でもありませんし、あなたにこうしろと言うつもりはありません。ただ、言いたいのは自分の人生は自分のものだということです。しかもあなたの身体はこの世で唯一、あなたが完全に自由にできるあなただけのものなのです。他人の身体や考えをあなたが自由にすることはできませんが、あなたのことはあなたが決めても問題ありません。生きるも死ぬもあなた次第。
その自分のことの最たるものである自分の健康を医療に丸投げするのではなく、上手に医療を利用して欲しいというのが私のまず言いたいことです。
そして、この健康について私が正しいと思う内容ですが、完璧に実践するのは困難であることが分かると思います。しかし、我々は充実した人生を生きるために健康になりたいのであって、健康になるために生きているのではありません。時々、不健康なことをすることも必要となるでしょう。

ただ言えることはより健康になる間違いない方法を求めだした高校生頃の私に、教えられるものなら教えたい内容であることは確かです。この内容を当時の私に伝えることができれば、より強い自分、より良い自分の追及にかかる時間を大幅に短縮できたのではないかと思います。そして、更に実践していれば現在の私よりも高い健康レベルを獲得できたに違いないと思います。

この単純に自然に人間レベルで考えた健康法を追求していて感じることは、心や食事の健康法はある程度2500年前頃から既に考えられていたことだということです。
しかし、この筋トレという究極のアンチエイジング法については2500年ぶりに人類が発見した超健康への英知だと思います。しかし、多くの方が利用されること無く不健康になられているのは残念なことです(まあ、心や食事も同様ですが)。

まだまだ超健康道の探究途中にいる私ですので、また違った考え方に変わるかもしれませんが、大筋では変わらないくらいのレベルには達したのではないかと思い、執筆に至りました。

そして、この超健康道のセミナーも行っています。その時々の私が最高に健康に良いと思う内容をお伝えしていますが、少しずつ内容も変化してきています。御興味のある方はhttp://ironclinic.jpを御覧下さい。

今回、この私の趣味の世界と申しますか、哲学と申しますか、人生と申しますか、なんとも表現しがたい超健康道を読んで頂き、誠にありがとうございました。

そして最後に、私にいつも生きる喜びを与えてくれる家族、いつも私を支えインスピレーションを与えてくれる同志、友人達、私に超健康になるための叡智を与えてくれた先人達、そして、何の努力も無しに私に存在感を与えてくれるこの世に感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございます。